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8.芸術作品の育て方

今月の名作
スナック「兎」の壁に掛けられた『耳』
(作/三木富雄)

 

『耳』との出会い


 銀座の小粋な洋食店で行われた友人の結婚祝賀会を終えて、旧友たちだけの二次会へと突入。いい加減出来上がって、さあ帰ろうかという段取りになったその時に、新婦(!)がさらに呑もうと提案したのでした。タクシーをひろい、新婦のいうがままにたどり着いたその先が、大田区は上池台にある小さなスナックだったのです。

 ちょうど空いていたカウンターの中程の椅子に腰を掛け、焼酎をちびりちびりと飲みながら、何の話をしていたのかは、今となっては定かではありません。右隣に腰掛けている男性は、一人で黙々と本を読み続けながら、これまた一人で酒を飲んでいるのでした。新郎新婦は、狭い通路で踊りに耽っています。その時、ふと、目の前の壁に掛けられた『耳』に目が釘付けになったのです。

 それは、紛れもない三木富雄の彫刻作品である『耳』でした。何といいましょうか、昔別れた恋人と再会したかのような・・・といえば大仰すぎますし、ずいぶんな誤解も生じましょうから、言い方を変えて、幼なじみに飲み屋でばったり会ったような、そんな心持ちがしたものでございます。なんだか言葉遣いが変になってきましたが、これでもやはり誤解が多いような感じがします。ですから、もう一度言い方を変えて、「芸術」に憧れて上京した16年前の私が思い浮かべていたはずの、今ではもう記憶の断片の一つにしかすぎなくなっていた、夢の一つに再会したような・・・とでも言えば、まあ当たらずしも遠からずといったところでしょうか。

 

『耳』の記憶

 まさにそれは、作者の名前を思い出すことさえできないほどの、記憶の断片にすぎないものでした。しかし、確か十数年前に銀座のギャラリーで見た、三木富雄の一連の『耳』は、鮮烈なイメージとして覚えています。引きちぎられた耳の形をしたそれらの彫刻は、アルミ合金を素材とし、磨き上げられ、覗き込めばこちらが写るほどのまばゆさで、光輝いていたのでした。手のひらほどの大きさの『耳』は白い壁に掛けられ、白い床には長さ1メートルほどもあろうかと思われる巨大な『耳』が横たわっていました。

 三木富雄は、1938年東京生まれ。53年、東京公衆衛生技術学校に入学、中退。57年より、東京都美術館で開催されていた読売アンデパンダン展に出品。63年、内科画廊での個展などを通して脚光を浴びるようになり、以後、78年に40歳で急逝するまでのライフワークとして、『耳』を制作し続けたのです。第5回パリ・ビエンナーレ(67年)、第34回ベネチア・ビエンナーレ(68年)、70年の大阪万博では万国博美術館「現代の躍動」などにも出品しています。

 もちろん年代から考えてみても、私とはそもそも世代が違うのですが、読売アンデパンダン展と言えば、赤瀬川原平、荒川修作、篠原有司男・・・といった名前がずるずる出てきますし、「反芸術」とか「前衛」といった言葉から想像できる当時の雰囲気を、私は、実体験していないにも関わらず思い出す(?)ことができます。

 そうした記憶の連鎖の中で、『耳』が今、私の目の前に掲げられていることが、一つの疑問として浮かび上がってくるわけです。

 聞けば、スナック「兎」のマスター、坪内一忠さんもまた、かつての「反芸術」あるいは「前衛」作家・志願だったのでした。「兎」という名は、画家・中西夏之さんによる命名で、看板も中西さんがデザインしたものだとか。あるいは、三木富雄さんの作品制作の手伝いをした経験があり、実は、ここに飾られている『耳』は、作品として世に認められる以前のもので、直接頂いたものだと言います。

 聞けば聞くだけ、ため息しかつけなくなのでした。

 

『耳』の育て方

 写真を見て、この耳は、アルミ合金の光輝く『耳』でないと思われる方もきっと多いことでしょう。  しかしこの『耳』の茶色には、スナック「兎」が32年前にできてから今日までの、煙草の脂、調理の油、ホコリに煤といったさまざまが積み重なっているのです。

 ですからもちろん、地は銀色に光輝く『耳』なのです。

「一度ね、綺麗にしてあげようと思って磨こうとしたの。そしたら、ある画家にね、そんなことはしてはいけないって怒られちゃって・・・」とは、奥さんの言。

 そう。

 もし、この『耳』が、新品同様の銀色の輝きを放っていたなら、私はきっと、ここまでの感動を得ることはなかったはずなのでした。作品が生まれたその瞬間の美しさをそのまま無菌室で育てるようなやり方は、美術館にでも任せておけばよいのです。そもそもを言えば、作品が生まれた瞬間というものを、どうすれば決定できるのかが私には理解不能なのでした。

 とあるギャラリーのオーナーが、美術館をして、死体の安置所だと揶揄したことがありましたが、これは言いえて妙だと思うのです。しかし、世の中の多くの作家はなぜか、自身の作品を死体の安置所に置きたがるのはどうしたことでしょう。

 いやいや、かなり酔いが回ってきましたかな・・・。

『耳』は道具か作品か?

 思えば、写真には耳がありません。

 写真は音を記録せず、音を再生することもないのでした。だから、耳がない。三木富雄の引きちぎられたかのように見える『耳』に、深く共感を覚えたのは、もしかするとこういうところに遠因があったのかもしれません。

 しかし、ここから先は考えることを止しておきます。

 木製のカメラを作る小さな工場に取材に行ったことがあります。樹齢300年以上という朱利桜を素材とし、半年ほどをかけて一台一台を手作りするようすに、小さな目眩を覚えたのでした。その昔、運慶とかいう仏師が木から仏像を掘り出す姿を譬えて、木が自らそう望んで掘り出されているかのようだ、と言った人がいるとかいないとか。この譬えをもってすれば、まさに朱利桜が自ら望んでカメラになっていくような、そんな感じがしたものです。そして、こうも思いました。この工場の職人たちは、社会の荒波に揉まれるカメラを自身の子のように育てているのであろうと。そして、その子たちは必ずや、いずれ手元から離れて勝手に生きていくのであろうと。

 すぐに壊れてしまうカメラをもってして、それは社会が悪いからといっても仕様のないことなのでした。

 姿形はいかように変われども、ちゃんと生きている作品ないしカメラとは、それだけで美しいものなのです。無菌室で生かされている作品やカメラとは、決定的なまでの違いがあるようにも思うのです。

 さて、はたと気づけば、新郎新婦は新居に帰ってしまっています。右隣の読書家もいません。いるのは、私とマスターと奥さんだけ。時計は5時を指そうとしているところです。そろそろ帰りますかと、ドアを開けたら、しとしと雨が降っていました。

「方向は同じだから、同じタクシーで行きましょう」と言う奥さんの言葉に誘われるままに、私もやっと帰路についたのでした。

まあ当たらずしも遠からずといったところでしょうか。