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6.写真という名の舞台装置

写真という名の舞台装置。


今月の名作
『現代写真の母型1999/part4』
「鈴木理策(すずきりさく)/吉村朗(よしむらあきら」
川崎市民ミュージアム・写真ギャラリー
1月25日~4月9日

 

写真家までの距離感。

写真2/川崎市民ミュージアム。右手の黒い巨大な物体は、工業地帯である川崎のモニュメント『トーマス転炉』です。

 

 今回は、川崎市民ミュージアムでの展覧会です。川崎は私の居住地で、市民ミュージアムまで自転車で10分ほどの距離ですから、本当に身近です。写真撮影にも時々このあたりの公園を使わせてもらうことがあります。

 つけくわえるなら、この美術館が開館した1988年当時、私は、東京都写真美術館の設立に関係する仕事にも少し関わっていました。ですから、なんというか、こういうと変に聞こえるでしょうが、この美術館より私の方が古参だという気がしたりもするのです。ここだけの話ですが、美術館の舞台裏というのも、少しばかりは見てきました。いろいろありましたが、これは本題ではありません。

 本題は何か、というと、今回の展覧会に出品している二人の作家、吉村朗氏と鈴木理策氏のこと。この二人とは、東京綜合写真専門学校の同窓であり、吉村氏は私の2才年上、鈴木氏は2つ年下。でも、ちょっと寄り道が長かった私は、二人の後輩にあたります。個人的なつきあいというのも、もちろん今でもあります。

 だから何か?

 こうしたあれこれが、作品や作家の存在(評価)にはまったく関係のないことだとは、確かに頭では理解しているつもりです。でも、一点の曇りもないすっきりした目で作品を見られるかというと、なかなかこれが難しい。作家個人、それも昔を知っているという一点において、既に作品を鑑賞する目に曇りが生じてくるような気がするのです。これは、嫉妬といっていいかもしれません。もし、私が彼らと同じ写真家という役割を演じていなければ、もう少し素直な目で、彼らの作品に向かうことができるのではないかと、正直、思いました。

カメラという装置、写真という装置。

写真3/2階中央が写真ギャラリー。右手には漫画ギャラリーと企画展示室、左手はグラフィックギャラリーと考古・歴史・民族展示室になっています。

 

 何の本で読んだのか忘れてしまいましたが、興味深い文章を思い出しました。次のようなものです。 『手を事故で無くした自動車工が、義手で工具を持ち、自動車を修理している。いったいぜんたい、どこまでが機械で、どこからが人間なのか?』

 ちょっと、ドキリとしませんか?

 例えば、私たちはカメラを使って写真を、自分の意志で撮っていると言います。しかし、少し考えてもらえば判るように、カメラがどのように動き、何がどうなって写真が撮れているのかを、正確に理解している人は、ほとんどいないはずです。完璧に理解している人は、一人だっていないはずです。それどころか、現在のカメラは自動化が大幅に進んでいますから、それはもはや人の手をほとんど離れて、カメラが勝手にピントや露出を合わせているのが実体なのです。

 私たちが写真を撮る意志とは、いったい何なのでしょうか?

 そして、話をここから別の方向に展開してみるなら、写真という一つの概念が、私たちの手(脳みそ?)を離れて、それ自体が自立し独立しているかのような動きをしていることに気づくことができます。

 つまり、私が写真を撮ろうが撮るまいが、世界は既に写真を既成事実として認めているのです。写真が私に関わっているのではなくて、私が写真に関わっているだけとか考えると、やはり胸が悪くなってきます。が、そうした考え方がないわけではありません。

 だからこそ、美術館で展覧会ができるというのは、やはり凄いことなのです。いい意味においても、悪い意味においても、それは一つの権力の装置なのですから。だからこそ、美術館という舞台の上で繰り広げられる演技には、作家の人生と人格が正真正銘の本気でもって掛けられているのです。作家だけではありません。展覧会の企画を立てる学芸員、広報担当者、そしてもしかすると観客の一人一人が、作家の演技を支えるために本気で関わっているのです。しかし、それ故にこそ、美術館という舞台装置の方が作家や学芸員や広報担当者や観客よりも、上位の意思決定能力を持っているかのように見える一瞬があります。

 私は、この一瞬が怖い。

 仏様の手のひらのような、写真という装置の中で踊っていい気になっているだけだという真実を直感しえた時、私たちはいったいその後の言葉をどう次げばいいのでしょう。

役者と観客と。

写真4/鈴木理策氏の作品展示。。

 

 ここまで考えてきて、冒頭に述べた目の曇りの原因の一つが見えてきたように思います。

 それは役者が役者を見る目だったのです。役者の演技は、観客に見せるためのものです。役者の演技を前にして、私も役者だと自己主張をするのは、基本的に倫理に反することです。だから目も曇る。  観客に徹しなければなりませんでした。しかし、そう簡単に観客に徹することができない程度には、深入りしすぎてしまっているのかもしれません。これは危険信号でしょうか、迷い無く進めという信号なのでしょうか?

 表現とは一種の騙しあいだ、というようなことを私はよく口にもしますし、実際にそう信じてもいます。だとすれば、作家の作品を介した表現に、よりよく騙される(感動するという意味です)ためには、作家との距離感を、ほとほどに保っておくのが一番なのかもしれません。

 同窓などというのは、かなり危険な橋渡しでして、お互いに知り得ている部分が多ければ多いほど、一歩間違えば救いようのない事態になりえないとも限らないのでした。そうはならないまでも、褒めれば褒めたで贔屓の引き倒し、あるいは褒め殺し(?)になりかねない恐怖もつきまといます。

 この場に及んで、こう思いました。やめときゃよかった。見ても見ない振りをしておきゃよかった。  いや、それも欺瞞でないかしらん。

 抜け道なし。自分で自分の首を締めたような結末です。

「編集」再考。

写真5/吉村朗氏の作品展示。

 

 作品や作家については、こうしたわけで口を謹んでおくことをお許しいただくとして、これまでも何回か書いてきた「編集」ということをもう一度考えておきたいと思います。これは美術館の展覧会ですから「編集」というよりは、「企画」とか「構成」のほうが的確かもしれません。

 この展覧会の主旨は、パンフレットによれば、次のように記されています。

「世紀末そして来世紀を目前にして現代の日本で活動している写真家たちが世界や社会をどのように感じ、どのように見ているのか、彼らは写真というメディアをどのように用いようとしているのか、あるいはデジタルテクノロジーの進展のなかでいかなる表現の可能性を切り開いていこうとしているのか、などといった問題意識の下に、写真を巡る現在進行中のアクチュアルな状況を4回連続の展覧会を通して展望し、観覧者の方々と共に考える場にしていきたいと思います。

 今回は、4つの展覧会で総勢10人の作家の方に参加いただきます」

 展覧会タイトルのpart4は、ですからこの企画の最後のパートであるという意味です。余談ですが、この展覧会中に鈴木氏は第25回木村伊兵衛賞を受賞。会期も最初の予定をほぼ1カ月延長して4月9日までになりました。

 しかし、何ですね。カッコいい文章に、カッコいい終わり方で、なんだか凄いですね。いいことです。

 ただ、この展覧会の二人の作品を、この文章に書かれた枠組みの中で捕らえ直すことをも考慮するなら、作品を透き通った聡明な目で見るということが、いかに困難な仕業であるか、がお分かりになるかもしれません。作品の意味は無限にあり、それを編集する意図も無限なのです。

 問題は、と続けることが許されるなら、私は、次のように問いたいと思います。

 問題は、作品そのものや、作品を「編集」した展覧会に対して、それを権威の象徴として位置づけるのではなしに、私たちが私たちの生活をより豊かにするために使うことができるかどうか。その一点に掛かっているのではないでしょうか?