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3.オリジナルプリントを考える。

撮影と鑑賞と

今月の名作
オリジナルプリント
作者名/外久保恵子
写真展『縁辺、そのまどろみ』より
全紙サイズ、時価3万円

 

 本誌読者の多くは、写真を撮る行為に主な関心があるはずです。写真を見る意思には少なからず、自分が写真を撮るのに役立てようとする目的が隠されていると思います。

 私自身、写真を見る時には必ずといっていいほど、その写真を撮るにはどうすればよいかを考えてしまう癖があります。どんな対象を、どんなカメラやレンズやフィルムを使って、どのようにすれば撮れるのかを、つい詮索してしまいます。

 そして、もしそれが判りきったとすれば、その写真に、それこそ見切りをつけてしまったりするわけです。でも、本当をいうと、完全に分かり切るというのは滅多になくて、どのような写真にも、何がしかの謎が残されます。

 ただ、こうして残った謎白体に、魅力を感じるものとそうでないものがある事実は認めなければなりませんが。

 考えてみれば、写真を撮る行為自体にも、このような謎があります。撮っても撮っても判り切ることのできない謎。それは被写体白身に隠されているのかもしれませんし、カメラやレンズなどの撮影機材、あるいは感光材料や現像処理や画像加工の謎かもしれません。

 ただ、どこかに魅力的な謎を発見し続けられるかどうかに、写真撮影を楽しみ続けることができるかどうかの分水嶺があるような気がします。こうしてみると、作晶を鑑賞するとは、その作品の内外に隠されたさまざまな謎を探究し続けることこそを指すのかもしれません。

 それはきっと、作品を鑑賞する人の心の旅路であるはずです。ですから、写真を撮る私たちと、白分では写真を撮らないけれども写真を見るのは好きといった人達とでは、その旅のルートもスケジュールも、そして行き先さえ全く異なる可能性が容易に想像できます。

 これは作品鑑賞に関わる、極めて深刻なすれ違いを生じさせる可能性でもありましょう。しかしながら、実をいうとこのすれ違いこそが、作品による表現を育む唯一の母体となっているのです。

 作品鑑賞に深みがあるとすれば、このすれ違いをよりよい方向に受入れ、発展させることができるかどうかに掛かっていると言えるでしょう。

写真作家とは何者か?
  

作者名/レス・クリムス LesKrims
作品名/不詳
全紙サイズ
作者の、ナンセンスヘ向かう仕事振りも少し知っていて、通信販亮で購入したものです。

 

 写真作家という生き方があります。かつて私は心底これに憧れていました。無論、今現在でもその夢を完全に捨て去ったわけではありません。

 そして恐らく読者の半数くらいは、こうした生き方を多かれ少なかれ夢見ているものと、私は心の奥底で信じています。えっア久門某というのは、写真作家ではないのか? 少なくとも、プロ写真家と呼ばれるクラスの人であったはずではなかったか子と、読者の多くは疑問に感じるかもしれません。

 お答えしましょう。

 私がいう写真作家というカテゴリーは、白らが好む対象を、白らが撮りたいように撮影し、白らが望むように仕上げられる写真家を意味しています。実をいうと、これにもっとも近い写真家は、アマチュアを標祷できる皆さんにこそ、その資格があります。

 なぜでしょう?皆さん白身がプロとしてやってきた仕事を考えてみてください。徹底して白分の好き勝手をやることは不可能ですね。当然です。プロの仕事は常に目の前の顧客と、その向こう側に控えるより多数の人々との関係性の中で行われるものだからです。好き勝手は原則として許されません。

 しかし、たまたま偶然それができる。しかも、ある程度長期的にそれが可能になる個人が存在する。そんな可能性は少ないけれども確かにあります。そんな「作家」という存在、およびその「仕事」。

 これらに憧れの眼差しを向けない人がありましょうか〒だからこそ、多くの若者はここに夢を見、故郷を捨て、上京したり海外に出かけたりするわけです。その中のほとんどの若者は、白分の能力や運の無さに出会うだけなのかもしれませんが、夢を捨てるよりはよほど健全な人生を彼らは手に入れることができるはずです。

 夢に生きる人生と、金に生きる人生。どちらがより幸福かは、分かりきったことのはずです。

写真を「売って」生きる
作者名/ジョアン・カリス/JoannCal1is
作品名/MaskedWomanonBed
4ツ切りサイズ
時価/3万円
勤めていたギャラリーの社員価格(?)で購入しました。

 

少し実務的になりますが、作家志望の人々が選択する(せざるをえない)生き方にもさまざまなタイプがあります。簡略化して箇条書きにしてみましょう。

 ①とにかく作家として立つことだけを祈るタイプ。白分が好きな対象を、自分が撮りたいように撮影し、自分が望むように仕上げることに執念を燃やします。それ以外には決して手を付けません。非常に純粋な人生観の持ち主ということができます。しかし、勿論、こんな悠長な人を受け入れる社会的環境は整っていませんから、基本的に貧しい生活を余儀なくされます。運を呼び込むことができるかどうかア唯一の課題はここにあります。

 ②仕事は仕事、作品は作品と割り切れるタイプ。同じ写真は写真なのですが、金になる仕事として撮影する写真と、金にはならないが白分の夢の代替品である写真を、自分白身の意識の中できちんと分離できる現実的なタイプといえるでしょう。①のタイプが結局、写真以外の仕事で金を見いだすしかなくなるのに対し、生活の全てが写真に収敏していますから、これはこれで純粋さを保っているともいえます。

 ③仕事を作品にしてしまおうとする、馴れ合い/強引タイプ。作品はどうせ金にならないと仮定するなら、白分が現実にやっている仕事を、自分の作品に近づけていく作戦もあります。①と②の中道路線ともいえますが、最終的な目標を①に置くか、②に置くかで、態度が異なります。

 しかしいずれにせよ、このタイプの悲願の達成は、作品に与える個人の思いが、結局、回りに共有される商品と等しくなってしまうという矛盾を抱えてしまいます。

 さて、如何でしょう。どれを選ぶにしても、たいして幸せにはなれそうもないですね。なんたることかげしかしながら幸せは、結果ではなく過程にこそあるとすれば、作家になろうとする個人の生きざまこそが素敵なものだと、私は誇りをもって叫びたい!

 

写真を「買って」生きる

  さてさて、夢の作家の話はここまでとして、ちょっと下世話な話に入りましょう。作家を成り立たせる存在。それは、作品を買う、人々です。

 当たり前ですよね。この資本主義的世界で生きていくには、私が作った、あるいは権利として獲得したなにがしかを買う人々がいてくれることこそが必要なのです。はっきり申しましょう。

 私は、必要かまたは夢がないものは、原則として買いません。これは読者のほとんどのみなさんもそうだと思います。

 ここで問題です。写真は、必要なのでしょうか、それとも夢なのでしょうかPこの問題に答えるに当たってさえ、先の作家の分類は有効だったりします。

 いろいろな人がいろいろなことを思い、写真を買っているのです。これが現実です。だから私のような写真家も、写真を撮って生きていられるわけです。ありがたいことです。はは。なんだか笑っちゃいたくなります。

 こんなんでいいのかなあアなんてつい、考え込んだりして...。ともあれ、今回は、私が購入した作品の全ての一挙公開です。たった3点だけというのもなんだか恥ずかしい限りですが、これらの作晶にン万円も掛けたなんて馬鹿みたいと思わないわけではありません。

 確かに、これらの作品を購入したのは、かつてのバブル期だったわけですし...。でも、後悔はしていませんし、今、これらの作品を所有していることには少しばかりの誇りを感じることができます。もちろん、これらの作品が単純素朴に「好き」だからなんて言えるほどのウブではありませんが、確かな記憶として当時の私が抱いていた夢の痕跡を感じることができます。

 全てが全て、私が好む対象ではなく、私が撮りたいような方法でもなく、私が望んでいる仕上げ方でもないからこそ、これらの作品に私は夢を見ることができるわけです。妙なものですね。写真を飾る。しかしそうはいっても、これらの作品は購入して以来ずっと、押入れの中で眠っていたのでした。

 なぜか? 飾る場所がないのです。車は買ったが車庫がないってな感じです。悲しいですね。でも、これも現実。しかし逆にいうと、こうした他人の作品を飾るしかできないっていうのもなんだか悲しいものかもしれません。

 そして、下手だろうが何だろうが、私たちは写真を撮ることができるわけですから、白分で撮った写真を白分の家に飾って、自分白身で楽しむっていうのが、気分としては一番かと思うのです。いや、作家気分を味わうならやはり、他人の家に白分の作品が飾られる方がいいのかもしれませんが...。話がぐるぐる回っています。

 

 最後に、もっとも一般的な写真の額装方法であるブックマットの作り方を紹介して筆を置くことにしましょう。先日、NHKの番組「大人の試験」で知ったのですが、こうした額装をする人をフレーマーと言って、資格もあるんですってね。国家資格ではなく、業者団体から与えられる資格のようですが、流石にプロのフレーマーの技術の高さには驚きました。でも、まあ、私たちが個人で楽しむにはまさに手作りの味ってのでもぜんぜんいいように思います。とにかくは、自分の手で作ることにこそ、一番の意義があるのですから。