前口上
名作鑑賞などというと、豪著な美術館の中で「ホホウ」とか「ウウム」なんて瞼りながら、こむつかしい顔つきで作品と対時する姿を想像してしまうかもしれません。そうでなければ、作品そのものを見るよりも解説を読む時間の方が長いのがご白慢の方も少なくないはずです。
名作に限らなくても、芸術作品を鑑賞するということは、その作品を感じること、心で受け止めることをいいます。もっと言えば、その作品を生きること、あるいは作品を自分の生き方に組み入れることを指します。別の角度で言えば、作品を購入したり、販売したり、消費したり、あるいは手で触り、匂いを嗅ぎ、頬ずりなんかしてみたり、はたまたアイデアを真似たり盗んだりすることさえ、鑑賞の内側に含めることができます。
新明解国語辞典によりますと、鑑賞とは「芸術作品などについて、自分なりに、そのよさを味わうこと」とあります。『自分なりに』......しかし、意外とこれが難しいのですね。だから、こむつかしい顔をしたり、解説を熟読したりしなければならないような気分になるのです。
つまりこれらを逆に考えれば、名作を鑑賞するさまにこそ、その人となりが現れる、といっていいでしょう。
写真集を一冊
今月の名作写真集:『Le Passe Compose』著昔:JACQES HENRI LARTIGUE PHOTOCOPIES◎1984byJ.H.Lartigue/S.P.A.D.M. 写真① 写真集の表紙。 保管が悪いせいで、 周辺が黄ぱんでいます。 |
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と、ここまで書き進んだ途端、寒けがしてきました。
この連載にこそ、私の人となりが現れるなんて、冗談もほどほどに願いたいものです。しかしまあ、冗談も含めてきっと、私の人となりが満載されることになるのでしょう。ですから、これが一番最初のお断りといった次第。
ま、気楽に始めることに致しましょう。
写真集のイメージ写真集というと、アイドルなどのヌード写真集や山岳や風景の写真集を思い浮かべる人は多いはずです。そうでなければ、有名写真家の作品集といったイメージがやはり優先します。
今回紹介するJ.H.ラルティーグは世界的にも有名なフランスの写真家ですから、確かに有名写真家の作品集ということはいえます。ところが、非常に興味深いことに、この作品集は彼のアルバムでもあるのです。ここでいうアルバムとは個人の人生の過程を写真で記録した私的な日記といった意味です。
ですから、ここには彼自身、彼の妻や'子供や友人とおぼしき人々が登場し、まさにベル・エポックといった古き良き時代が写し出されています。私的なアルバムが写真集になるとは、さすがに海外の有名写真家は違いますね。とも言えるのですが、そうではなくして、写真の本質がまさに、アルバムに始まりアルバムに終わることに注目しておきたいと思います。
ラルティーグの写真集を読む。
彼にとっての写真とは、白分が送っている実際の美しい人生を、より美しく記録するための強力な道具であり、それ以上でもそれ以下でもありません。
私が知っている中で、こうした言菓をそのまま当てはめることができる写真家は他に、荒木経惟氏と鈴木清氏くらいしか思いつきません。ただ、この二人はラルティーグと同じ地点にいながらも、背中合わせの方角を向いているところに大きな違いがあります。なぜかというと、ラルティーグにはもともと貴族的な美しい人生があったのに対し、荒木氏や鈴木氏の場合には写真を通して美しい人生を手にいれていくしか方法がなかったからです。
こうした埋解は、もしかすると問違っているかもしれませんが、私にはそう思えてなりません。もちろん、私白身も、そして読者の皆さんの多くも、ラルティーグではなく荒木氏や鈴木氏と同じ方角を向いているはずです。
なぜ、そう思うのか、というと、私たち自身の実際の生活がそのままで美しいと感じられる人は、決して多くないと思えるからです。少なくとも、この写真集を一通り見た後でも、頑固に白分の生活の方が美しいと言い張るとしたら、それはかなり偏屈な人格の持ち主と見なされるでしょう。なぜなら、明日は今日より美しくあろうと願い続ける私たちの美徳は皮肉にも、今日は明日に劣ることを受け入れる精神によって、よりよく育まれているからです。。
さて、虚実皮膜としてのアルバムタイトルに目を移しましょう。告白しておきますが、フランス語はからきし駄目です。だから、意味などまるきりわかりません。判らなくてもよい、という見方をずいぶ続けてきました。
でも、こうして記事にする以上は、知っておかなければ困ることもあるでしょうから辞書を引きました。
隠された意味。
私なりに直訳すると、『構成された過去』『複合された過去』『見せ掛けの過去』『気取った過去」となります。文法用語として『複合過去』とも訳されていますが、これはもうチンプンカンプン。
ここで知りえた限りの情報を整理すると、要するにこれは彼の過去を(再)構成したアルバムといってよさそうです。史実に忠実であるよりも、見た目のよさを優先しているわけです。たかがタイトルとは言え、言葉の意味はちゃんと調べてみるものですね。反省。
でもしかし、なんというタイトルなんでしょうか?日本語的に考えると、ちょっと呆れてしまいます。いや、もしかすると、何か他の隠された意味があるのかしらん。
反省ついでに、写真のキャプション(もちろんフランス語)も白分なりに読んでいくと、そこに写っているのが誰なのか、どういう場所で撮影されたものなのかが、そこそこ理解できます。ここに、写真の見方が変わる心地よい一瞬があります。
こういうことも判りました。つまり、ここには1922~30年に渡って撮り続けられた40点の写真が掲載されていますが、撮影年順に必ずしも従ってはいないのです。アルバムなのにも関わらず、年代順ではなく、ぺ一ジを一枚一枚めくっていく時の、なんとはなしの心地よさに従って編集されているのです。
ありのままをありのままに写すだけではなく、美しいものをより美しく写すことが可能だという(逆もまた真なり)写真の詐術的本質が、ここにほんのり見え隠れします。ちなみに、撮影年別の写真点数を22年から1年ごとに整理すると、3,3,2,0,10,9,5,5,4点と、てんでんばらばら。いいですね、このいい加減さ。
こういうの、大好きです。そして、いい加減ついでに書くなら、写真を1点も掲載していない25年には、何か重大な出来事でもあったのだろうか子もしかするとパノラマ写真じゃなくて、ステレオ写真なんかにうつつを抜かしていたのだろうかなんてことを、つい詮索してみたくなります。
構図を真似る。
さてここまで来て、もう一回視点をこちら側に手繰り寄せてみると、9年もかけるなら私たちにだって写真点数40枚の写真集を作るくらいのことはできそうだと、妙に希望が沸いてきたりしませんか?
今日から先の9年でなくてもいいのです。今まで長年に渡って撮影してきた写真を見直して、今の気分で、いいなと思える写真だけを40点集めるくらい、いとも簡単そうじゃありませんか?
もちろんテーマや順番なども、今の気分で、自由に構成してよいのです。なんだか、写真のもう一つの楽しさが見えてきそうですね。皆さんも、ぜひ、チャレンジしてみてください。
立派な印刷の写真集にしなくても、クリアファイルに写真を整理するだけでも、自分の写真の別の魅力を発見できるはずですから。でも本当をいうと、ラルティーグのように幼い頃から亡くなる瞬間まで、同じように写真を愛し続けることの方が難しいんですけどね。
もう一つの「構成」ここで、写真の構成という言葉の意味を別の方角に向けてみましょう。つまり、馴染み深い言葉でいうなら、写真の構図を考えてみようというわけです。
写真の構図。いろいろありますね。ただ、考え方の基本の一つに「いわゆる構図の悪い巧:真の方が、より写真的な構図である」があります。写真は絵に近いものですが、絵ではありません。だとするなら、まるで絵に描いたような良い構図ではないものの方が、より写真的な構図だというわけです。

でも、悪ければ何でもよいと認めてしまえば、皮肉にもそこに悪いという正しさが生まれてくるわけで、実に始末におえないのですが、ともあれ、構図は難しいものです。そこで、こう考えてみるわけです。このラルティーグの二写真集を一つのお手本にしてみたらどうかと。特にこの写真集は、6×13センチ判のパノラマ写真ですから、最近私たちにも身近になったパノラマ写真を撮影する際に、これらの写真の構図を少し念頭においてみると、意外な発見に出会えるのではないでしょうか?

もちろん、構図を見るというヒとも結構難しいものですが、ここが自分なりのいいところ。自分なりに構図を解釈し、それを白分の撮影に応用してみるだけのことです。写真の構図の勉強という言い訳も立ちます。
というより、本当にいい写真の勉強になることは私が請け合います。そんなわけで、試してみたのが、ここに掲載した写真です。どこをどう真似たのか、見比べてみるのも一興。時代と環境の差を読むのも一興。見方は人それぞれということで・・・。



