
一昨年の連載『駅前写真館の冒険』で取り上げさせて頂いた駅前写真館こと「写真道場」は、今年で8年目を迎えます。設立以降、私一人で運営を続けていますので、開店しているのは2日に1日あるかないか。開いていたとしても、午後の数時間だけといった状況は相変わらずです。
ですから正直なところ、よくまあ、こんやり方で続けられたものだ、ラッキー! という思いがあります。しかしその反面、本来の目的を思い返すと、まだまだ遠い道のりが残っているような気もするのです。
はて。
本来の目的とは何だったのだろう。
などと、とぼけても仕方ありませんので、正直なところを書きますと、とにかくこの写真館が自律的経営を持続できるようになることです。しかもその前提として、私が撮りたい写真を撮りたいように撮る、という我が儘な条件がついていますから、話は厄介なのでした。
無理ですね。そんな写真館なんて。
しかし、目論見としては、お客さんの意識と、私の意識を、何年も何年もすり合わせていく内に、それは可能になるはずだ、という確信だけはあるのです。問題は、どちらがどちらにすり寄るか、だけです。
で、8年目。

やっと、目的の軌道上に、その半歩を踏み出せたかのような実感があります。 してみるに、次の一手を考えなければならない時期に差しかかっているのでした。21世紀の最初の1年目の、次の一手。
それは、実をいうと・・・と書いてはみたものの、それが分かっていたとしたら、さっさと実行に移しているのが本音ってなものですよね。
次の一手が分からないからこそ、悶々と悩み続けているのです。はい。
しかし、不惑。もはや惑うことなく悩み続けるしかないってことでしょうか。
▲1年を振り返って。
ここに掲載しているのは、この1年に撮影した写真をざっと見直しながら、よさそうなカットを気分で選択したものです。
そもそもお客さんの数は知れてますから、だいたい覚えているつもりだったのですが、意外や意外。写真を見て改めて思い出し、一人でくすくす笑ったり、やっぱいいよなぁなどと独りごちたりしました。
撮影直後の見え方とは少し違った見え方がしたり、新しい発見があったりするのも愉快です。こういうのって、写真の愉しみの一つですよね。いやいや、自分一人で愉しんではいけないのでした。なにしろ、これは商売なんですから。 そう。問題の一つは明らかにここにあるのです。
自分自身がほとんど趣味のように撮影して、善し悪しは別としてさえ、その仕上がりを楽んでいるのです。そして、なぜだかその上に私はお金まで頂いてしまっているのです。 検察官曰く「いいんでしょうか、こんなことで! この点、どう思われますか? 被告人!」
被告人の弁明「そういわれましてもねぇ。例えていうなら、ここはゲームセンターのようなもの。ちゃんとした写真を一生懸命努力して撮るのやおまへん。写真に撮られることを楽しんで頂いてなんぼ。というより、わたし自身、撮影を遊んでまんねん。せやから、仕上がりなど二の次いうとこありますもんなぁ。無責任なようでもおますが、それで皆さん喜んで下さるんやから、まあ、世の中おかしなものですなぁ。はあ。」
検察官、応じて曰く「話にもなりませんね。だいたい言葉遣いもおかしいことこの上ない。裁判長、検察は被告人に無期懲役を求刑します。」
話が目茶苦茶になってきましたが正直、無期懲役の方が、無期放蕩よりも、健康的かもしれないと思うことがあります。いや、絶対そうですよね。でも、やはり無期懲役は嫌です。バランス的によいとすれば無期懲役ときどき休憩。あるいは一時放蕩のち無期懲役とでもいったところでしょうか。
すみません。ほとんど天気予報のようなオチになってしまいました。
▲写真に写ることへの抵抗とは?。
読者のほとんど全ての方は、写真を撮ることを愉しみにしていますね。それに付随する形で、写真を見ることも愉しみの一つとなっている。しかしながら、写真に撮られるのはどうかというとおそらく、それはちょっと・・・と敬遠される方が意外に多いのではないでしょうか。
なぜでしょう。
かくいう私自身、多少慣れてきたとはいえ、今でも写真に撮られる時は、なんだか妙な緊張感に捕らわれます。それに無論、顔つきへのコンプレックスだってないわけではありません。
いや、そういう話ではなくて、自分自身が写りたがるタイプの人が、すなわち目立ちたがり屋であったり、ナルシストのようなイメージを喚起するところに抵抗を感じるのですね。単純にいえば、恥ずかしいということ。
この恥ずかしいという意識を支えているのは、個人としての表現を極端に抑制する私たちの文化的背景でしょう。恥ずかしいから、皆と同じような格好をして、あまり目立たない表現に落ち着けようとする意識は、老若男女を問わない一つのメンタリティといっていいものです。
しかしながら、人として生まれたからには、何かを表現しなければ存在していないに等しくなる訳ですから、こうしたメンタリティは非常に屈折した表現形態をとるようになることが多いものです。
いや、やめましょう。こんな暗い話。
写真に写ることに抵抗を感じる理由でした。
これには、写真はほぼ半永久的に残るイメージであって、どこの誰の目に触れるか分からないという事実もありますね。この事実が問題なのは、写真は「真実」であるという思想的習慣に私たちが押し流されやすい性質をもっているからです。
写真は、光学的に正しい像ではありますが、それが「真実」であるとは限りません。もし、写真が常に「真実」であるなら、美しい被写体は必ず美しく写るわけでして、写真の上手も下手も存在しません。無論、プロなど不要です。写真が「真実」であるか否かは、当の写真を取り巻く文脈が決定するのです。
しかし、写真は「真実」でないと分かっていたとしても、それは「かつてあった事実」として存在し続けます。そして私たちは、ついそれを「真実」と見なしてしまうのですね。撮影時には冗談であったり、虚構を演じていたり、偶然たまたまであったにしても、それはいずれ「真実」として見られるようになるのです。
写真に写るというのは、なんと恐ろしいことでしょうか!
しかしここまで来ると、かつて写真は人の魂を抜きとる魔術だと思われていた時代と、我々の現代が、さして変わらない意識を共有していることに驚いてしまいます。
▲写真に見る「夢」。
イメージというと、目に見える対象の形や姿という意味がある反面で、心の中に思い浮かべる像とか、全体的な印象や心象といった意味もあります。
これら二つは、似通っている場合もあれば、まったく異なる場合もありますね
。 例えば、心霊写真。卑俗な例で恐縮ですが、これにある人は本物の霊を見ます。別の人は撮影技術を見ます。また別の人は、何がなんなのかチンプンカンプンだったりします。
もう一つ、今度は高尚な例、芸術写真を考えてみましょう。ある人は、そこに作家の魂や美を見ます。別の人は、そこに文化批判を見たり、あるいは札束を見ます。また別の人は、まったくもってチンプンカンプン。
心霊写真と芸術写真って、意外なほど根っこは近いところにあって、いずれにしても、それらの写真を見る人に、それが「真実」であると信じさせられるかどうかに、その作品の価値が掛かってきます。だから、それぞれの鑑定家(評論家)はそれなりの雰囲気を持った人が演じなければなりませんし、もちろん写真家もそれを本気で演じていなければなりません。
さて、実をいうと、私は、心霊写真にも芸術写真にも、ちょっとズレた場所で関わってきたお蔭で、悲しいことに、写真に対して「霊」も「魂」も「美」も見ることに半ば飽きてしまったのでした。
私が写真に見るのは、かろうじて「撮影技術」であり、「文化批判」であり、「札束」といった、もうほとんど実務家のそれに近いものです。しかし、それさえ最近ではずいぶん怪しくなってきました。
それでもなお、なぜだか私は写真に一つの「夢」を見ています。いわくいいがたい「夢」。未だこの世にありえない仮象としての「夢」。そんなわけですから、言葉にすることさえ上手くないのですが、できうるなら、それを「ありえなかったはずの現実」として、読者やお客さんに提示できればいいな、とは思い続けているのです。
あ、なんだかわけのわからない結末になってしまいました。が、単純にいってしまえば、写真なんて冗談だと思って、皆で楽しんじゃいましょうよってなことです。
ほとんど何も考えなかったことに等しいですね、これじゃ。
お後がよろしくないようで、今回はここまで。



