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2.台所の錬金術師(鶏卵紙を作る)


 1965年、量子電磁気学の「くりこみ理論」でノーベル賞を受賞した、朝永振一郎博士の著作に『私と物理実験』という小品がありまして、先日、初めて読んでうんざりしてしまったのでした。

 小学生の頃のたわいもない思い出話と切り出すのですが、雨戸の節穴を通してさかさに写る庭の景色に感動するのですね。いわゆるピンホールカメラの仕組みで、まあここまでは共感できます。ところが、なんとこの少年は穴の部分に、近くで拾ってきた虫眼鏡をつけてみたりするのです。誰に教わるわけでもなしにですね。

 中学にはいると、幻灯機を自作するのですが、なかなか明るい像が得られません。そこで学校の幻灯機と比較したところコンデンサーレンズが必要なことが判明。少年、なんとフラスコに水に入れて代用したんだそう。

 いやはや、こういう発想というか、なんでもやってみよう精神って凄いとしか言いようがありません。そして自分の発想力と実行力の無さにうんざりしてしまったわけなのでした。

 極め付きは、幻灯機にかけるための写真を作る話。「硫酸紙をガラスにはりつけて、青写真の薬をぬってやきつけてみたが、色がうすく、透明度も悪くてものにならない。そこで試みに、寒天をとかして、それをガラス板に流し、乾かしてから青写真の薬をしみこませてみた。乾いたところを焼き付けてみたら、予想以上の色濃い、透明な青写真がガラスの上に出来て大成功であった。得意になって、友だちを集めて幻灯会をやった。」とのこと。

 まったく。物理学の天才は、小学生から中学生に至る過程で、人類が数百年(数世紀?)かけて築き上げてきた写真の歴史を再現してしまうのです。ったく。

 なお、この小品は、『科学者の自由な楽園(岩波文庫)』に所収されております。興味のある方はご一読を。

▲鶏卵紙とは何か?

 前置きが長くなってしまいましたが、今回は鶏卵紙に挑戦します。挑戦といっても、以前、JCII(日本カメラ博物館)での講習会で学び、自分でも何回かやったことのある技術でして、しかも自著などにも紹介したほどですから、既に出来ることはわかっているのです。しかし、とりあえず出来ることがわかっている程度ですから、今回は、もっと美しい像を得ることを追求します。ヒントは、朝永博士のスピリットと「寒天」。いや、寒天は使いませんが、ようするに、感光乳剤を厚く塗るとどうなるかを試してみようというわけです。

 さて、鶏卵紙とは何かをご存じない方もいらっしゃるでしょうから、簡単に紹介しておきましょう。

 鶏卵紙(albumen print)とは、1850年にフランスで開発された印画紙です。1895年頃までは主流のプリント材料で、商業用肖像写真にも使われました。

 鶏卵というと、まさに鶏の卵のことですが、この卵白を使った印画紙です。とかいうと、ちょっとびっくりするのですが、卵白が感光材料になるのではありませんで、感光材料を紙にくっつけるための素材として卵白が使われているのです。

 感光材料は何かというと、塩化銀。いわゆるハロゲン化銀の一種で、現在の感光材料にも通じています。

▲まずは撮影から。
 コニカパンSSで撮影し、通常の現像処理を行ったネガ。  左のネガからのコンタクトプリント。最大濃度、ディテールなど文句なし。  コニカパンSSをISO400で撮影。通常の2倍の現像時間で処理。鶏卵紙用に使うためコントラストを高くしています。

 

   さて、作り方を簡単にいうと、卵白と食塩水を混ぜたものを紙に塗り、乾燥させた後に、硝酸銀溶液を塗布して乾燥させるだけ。硝酸銀と食塩が反応して、塩化銀ができ、それが感光材料になるのです。

 化学には詳しくありませんので、質問されても困りますが、とにかくこれだけで印画紙ができます。しかも、硝酸銀以外は台所にあるものばかりですし、真っ暗な暗室でなく電球照明の薄暗い部屋で大丈夫です。超お手軽に、台所で錬金術師気分を堪能できるといった次第。

 ただし、もちろんですが、現在の印画紙と同じでは決してありません。第一、感度がおそろしく低いのです。ベタ焼き(コンタクトプリント/密着焼き)の要領で、直射日光をつかって5~15分程度も露光する必要があります。無論、引き伸ばしはできませんが、露光するだけで非常に美しい赤紫色の像が現れます。現像処理は必要ありませんが、像を安定させるために通常の定着液で処理します。

 第二に、とても軟調ですから、普通のネガは使い物になりません。かなりコントラストの高いネガを準備します。

 さて、ここまで聞いて、面倒だなぁ、難しそうだなぁ、と思われる読者も多いでしょうが、モノクロプリントの自家処理を行った経験がある方なら、割合簡単に手作りできるはずです。お楽しみあれ。

 硝酸銀は、近所の薬局で購入できるはずですが、印鑑が必要です。銀が含まれていますから、意外なほど高価。しかしそれに見合う愉しみを味わえるでしょう。もちろんですが、薬品の取り扱いおよび廃棄には十分注意してください。

 さて、先に述べたよう、鶏卵紙はネガと同じ大きさのプリントしか作成できません。

 ですから、大きなプリントを得たい場合には、その大きさのネガが必要になります。もちろん、4×5インチサイズとか、8×10インチサイズの大判カメラを使えば、それなりのものが作成できます。あるいは、オリジナルのネガやポジフィルムから、大きなサイズのモノクロネガを作成する方法もいろいろあります。

 しかし、いずれにしても面倒そうです。なもんで、ここは一歩下がって、中判カメラを使って6×7センチサイズで我慢。この程度のサイズだと、鶏卵紙づくりもかなり楽です。

 というのも、大きなサイズになればなるほど、感光乳剤を均一に塗布することが困難になってきますから。なお、意外なことに小さな写真には、小さな写真なりの高級感というものもあったりします。

 撮影対象は、何でもok。ですが、一応鶏卵紙の性能を計る目的もありますから、真っ黒と真っ白と中間調が画面の中にあるものというわけで、黒い大理石の上に白と橙のガーベラを置き、電球で照明。光が大理石で反射したところが、画面のハイライトとなるようにしました。カラーフィルムで撮影した写真1をご覧になられたら、これがまさか電球一つで撮影したものとは思えないかもしれません。

 ちょっと自慢でしたか。

 ともあれ、フィルムはコニカパンSS。通常の現像を行ったネガ(写真2)と、鶏卵紙用の現像を行ったネガ(写真4)を見比べて頂ければわかるよう、ネガ像のコントラストが極端に異なることがわかるはずです。しかし、ここまで硬調なネガなのにも関わらず、鶏卵紙にプリントすると、まだ少し軟調ぎみなのですが。



▲鶏卵紙づくり。

 鶏卵紙の作り方は先に述べたとおりで、写真にもその手順を示しました。薬品などの混合比率は、かなりいい加減。というのも、以前何回か経験した中で、厳密にやってもやらなくても、あまり結果は変わらないことが判明しているからです。でも、きっとこのあたりを詰める人とそうでない私のような者では、仕上がりに多少なりとも差がでることは確かでしょうが。

 前述したよう、鶏卵紙づくりで難しいのは卵白や硝酸銀溶液を均一に塗布すること。ものの本によれば、筆をつかったり、弓のような道具を使ったりなど、いろいろな方法が記されています。ですから、いかに均一に塗布するかどうかに、個人の工夫の余地があるわけです。私の方法は、ガラス棒で延ばすという、かなり乱暴なものですが、たまにはこれで上手くいきます。

 こうしたわけですから、写真8Fにあるよう、失敗作の山が生まれるのでした。しかし、こうしてみると、不思議なことに、失敗作の方がかっこよく見えたりするのですね。なぜって、均一に塗布し、綺麗な像のプリントになればなるほど、現在の印画紙の印象に近づいてくるのです。手作りの味わいがなくなるとでもいいましょうか。

 はて。

 そうであるならば、下手なほうがいいかというと、それもなんだか違うように思います。

 難しいところですね。


 さておき、今回の最大の目的は、より高画質の鶏卵紙の作成にあるのでした。より高画質とは何かというと、以前作成した鶏卵紙の問題点の一つが、最大濃度の不足にあるのでした。それを解決するには、朝永博士の寒天にヒントを得、感光乳剤を厚く塗布すればいいのではないかと考えたわけなのです。乳剤を厚くするにもいろいろな作戦が思い浮かびますが、まずは簡単なところで、乳剤を二度塗りすることに挑戦しました。

 卵白を塗布して乾燥した後で、再度、卵白を塗布。しかるのちに硝酸銀溶液を塗って仕上げるのです。

 しかし、もとより均一に塗布するのが難しい卵白を二度塗りするのは、もっと難しかったというのが結論でした。

 10枚程度やりなおす内に、たまたま上手くできたのが写真10に示したもの。一度塗りの写真9 に比べれば、最大濃度がかなり濃くなっていることがわかるはずです。大成功、とまではいきませんが、そこそこ満足できる結果になりました。

 ホッ。

 昔の人はいったいぜんたいどうやって大きな鶏卵紙を作っていたのでしょう。謎は深まるばかりです。

 何にしてもそうだと思うのですが、自分の手で作った物は、その出来映えがどうであれ、非常に愛着が沸くものです。そして、何度も何度も繰り返して作る内に、腕も技も上達して、そこそこ立派なものができるようになるのも楽しみの一つと言えるでしょう。

しかし、皮肉なことに、上達すればするほど、大量生産される既製品の高品位に近づいていくというのは、なんだか少しやりきれないような気もします。とりわけ、今回紹介したような手作り印画紙で高品位を求めようとすればするほど、メーカーが安価に販売している現在の印画紙に近づいていくのは皮肉としかいいようがありません。いや、皮肉というより、メーカーの人々は、それこそを目的として日夜努力しているのでしょうが。

 いや、おそらく問題は、高品位とは何かといった前提の立て方にこそあるのでしょう。

▲手作りとその展望。。

 印画紙やフィルムでいう高画質とは何か? カメラやレンズでいう高性能とは何か? いずれにしても、学校でいう成績の如くに、これらは数値で示されるもののようです。そしてそれらは、結局のところ金額に換算されてしまう性質もあるようです。と、このように考えると、ますます虚しくなってきます。

 あーあ。

 しかしですね。やっぱり、自分の手で作るというのは気持ちのいいものであることに違いはないのでした。手間隙を掛け、試行錯誤を繰り返すことこそが、愉快なのですね。出来上がった物の優越など、そこにはないのかもしれません。あるとすれば、その人なりの好みであり、趣味であり、気分でしかないようにも思いました。好みや趣味や気分。これだって、現代社会においては数値化できるもののようですが、それなりの移ろい安さを伴った数値ではあるはずです。

 塗りムラがひどいが、それまた味わい。これは一度塗りのもの。(ケント紙ベース)。  卵白を二度塗りしたもの。左に比べると最大濃度が濃く階調も豊か。  和紙に塗布したもの。紙質によってもさまざまな味わいを楽しめる。


 なによりを言えば、自己満足の世界。お気に入りの鶏卵紙のプリントを額にいれ、サインは例によって意味不明文字を記しました。プリントはわざわざ天地を逆さまに入れました。すると、なんだか満月を背景にガーベラを撮影したようではありませんか!

 決して、高品位とは言いがたい小さな小さなプリントですが、ここしばらくは、机の上で私の目を楽しませてくれることでしょう。