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10.何を撮るか、どう撮るか?

「いい写真を撮りたい!」という気持ちは、全ての読者に共通するものだと思います。でも「いい写真とは何か?」と正面きって聞かれると、ちょっと困りますよね。真面目に答えようとすればするほど、言葉に詰まるはずです。

 なぜなら、いい写真とは言葉で語り尽くすことができないところにこそ、その本質があるのです。いい写真の本当の良さを、言葉で100%表すことはできません。今回はこうした「いい写真」に、自分なりに接近するための方法を考えてみたいと思います。

「見る感動」を問う。


 1年ほど前のテレビ番組と記憶しているのですが、目の見えない人が写真を趣味にしているといった話題が紹介されたことがあります。最新のAFカメラを使えば、目が見えなくても写真を撮ることはできます。ピントも露出もカメラが自動的に合わせてくれます。

 フィルムを装填したりレンズを装着するといった程度のことなら、特に目が見える必要はないでしょう。そして撮影済みのフィルムは、写真店に持ち込むだけでちゃんとしたプリントになります。しかしもちろんですが、彼はその写真を見ることができません。ですから、写真店の主人などの感想を聞きながら写真のイメージを想像するわけです。そして、それを繰り返すことでしだいに腕が良くなっているというのです。

 正直なところ、「いったい何が楽しいのだろう?」というのが最初の感想でした。自分の目で見ることのできない現実を、これまた自分の目で見ることのできない写真に撮って、いったい何が楽しいのか? それがさっぱりわかりませんでした。

 しばらく考えて、それはおそらく、写真店の主人など、写真を見てくれる人の反応があるからではないかと思い至りました。本当のことはわかりません。しかし、写真を通して、人と人とのつながりを実感できるとすれば、それだけで十分に価値があると思ったのです。こうした意味では、特に写真である必要はないのかもしれませんが、彼にとってはそれがたまたま写真だったということなのでしょう。

 目が見える私たちにとって、「見る」というのはごく当たり前で自然で日常的なことです。しかしながら、ごく当たり前で自然で日常的であるがゆえに、「見る」ことの意味を私たちはあまり深く考えません。これは空気や水の存在と似ているように思います。環境が破壊され空気や水が汚染されて始めてその有り難さが判り、目が見えなくなって始めて「見る」ことの本当の意味が判るのかもしれません。

現実を見ることの難しさ。

 景勝地に行ったり、有名人に合ったり、芸術作品を見たりする時、「写真そっくり!」とか、「まるで写真みたい!」と言って感動する人がいます。考えてみればずいぶん滑稽というか、本末転倒な感動の仕方なんですが、しかし確かにそうした気分になることがあります。

 なぜかというと、私たちは実物を見るよりも先に、雑誌やカタログの写真やテレビなどの映像でそれらを見ているからです。しかもこれらの写真や映像は実物の良い部分だけを、実物よりも綺麗に見えるように写したものですから、困ったことに実物を見た途端に興ざめしたりすることも多いのです。ですから、実物に出会った瞬間に「まるで写真みたい!」と思えたとしたら、それは褒め言葉でしかないわけなんですね。へんな話ですが。

 しかしながら、これは今に始まったことではありません。私たちは、何にしたところで、あるべき姿(イメージ)を念頭にしてしか現実に向き合えないのです。私たちは普通、自分の目でありのままの現実を見ているような気分でいますが、実際には自分が見たいと思っているものを自分が見たいようなイメージでしか見えてはいません。自分の目というのは案外信用ならないものなんです。しかしながら、自分の目を信じるしかないのも事実ですから、結局のところ自分の目を鍛え上げるしか方法はありません。

写真的に見るということ。

 現実を見ることと、写真を見ることの違いとは何でしょう。素朴に、写真は現実と違って静止したイメージです。そしてそれは四角く囲まれた世界です。さらに写真は平面でしかなく、また実物の表面しか写してはいません。

 つまり、写真は基本的に一瞬しか写らないし、四角く区切られた外の部分も写りません。また奥行きも、そして実物の中身も写らないのです。付け加えるなら、現場の匂いも風も気温も湿度も写りません。これは当たり前のようですが、実際にファインダーを覗いている事はこれらを全て感じながら見ているわけです。しかし、仕上がった写真にはこれらは写っていませんから、なんだか印象が違うということになってしまうわけです。

 写真的に見るというのは、このように写真に写らないものを除外して見ることを指します。こう言ってしまうと、なんだか不具合で詰まらないことのように思えますが、これが現実のありのままを見るための一つの方法でもあるのです。

 ここで少し絵のことを考えてみてください。絵も写真に似て、基本的に静止したイメージですし、四角く区切られ、平面的で表面的です。ですが、絵を描く時には必ず対象を凝視し観察します。それは絵を描くために必要という以上に、対象をよりよく理解するために欠かせないことなのです。「見る」という言葉には、判断するとか調べるといった意味があることを思い起こしてください。

 ところが写真はどうかというと、カメラを対象に向けてシャッターボタンを押すだけで事足りるのです。対象を見ないでも写真を撮ることができます。これが写真の便利な点でもありますが、対象を見ないで済ましてしまうといった意味では、目が見える私たちにとっては極めて危険な点でもあるのです。

 道端に綺麗な花が咲いていたとしましょう。「あ、綺麗」と思い、立ち止まって写真に撮る。そしてまた歩きだす。それっきり花のことなど忘れてしまう。これではもったいないな、と私は思うのです。

 何がもったいないかというと、「あ、綺麗」と思った心が十分に満たされないまま忘れ去られることがです。「あ、綺麗」と思ったら、じっくり花を見つめてみたい。横から見るとどうなのか、下から見るとどうなのか。花びらは何枚あるのか。色は何に例えられるのか。そんな風にじっくり見つめて、見つめ尽くした後で写真に撮るくらいでちょうどいいのではないでしょうか。

ケーススタディ(写真の方法)


 カメラやレンズの操作ということではなくて、いい写真を作るための方法を私なりに整理してみると次の5つのステップになります。実をいうと、それぞれのステップが極めて深い内容を含みますが、写真を撮る時、あるいは写真を撮る以前にこれらのステップを頭の中でざっと考えてみるとよいでしょう。

1・モノ(物・者)を見る。
 写したいモノは何なのでしょうか。対象がはっきりしている場合には、それをよく観察してみます。どの方向から見たら綺麗に見えるでしょうか。次にそのモノだけでなく、背景も良く観察してみます。人の目というのは見たいモノだけを見て、背景となるものは意外に見ていません。注意して背景を観察してください。さらに時間があれば、そのモノの名前や性質や歴史などを調べてみましょう。良く調べれば調べるほど、そのモノに対する見方が変わってきます。見方が変わるということは、写真の撮り方も変わってくるということです。
  1・モノ(物・者)を見る。
 ファインダーを覗いている時に、自分が今、何を見ているかを考えることは、とても大切なことです。いい写真を撮るには、見ているモノが、ファインダー内でよく見えるようにすればよいのす。
作例1A・『才女』大橋秀雄さん/ アップで写し、背景をボカすことで、女性がよく見えます。ポートレートの基本ですね。
作例1B・『ポピー』安田勇次さん/ 背景が暗く落ち、逆光ぎみに光が当たっているために茎や実の絨毛が美しく見えます。
作例1C・『木の目』山崎曽紀さん/ もっとアップにしたり、光を工夫すれば、木目の形の面白さがもっと引き立つはずです。
作例1D・『角が生えた』中島幹夫さん/ 浅草にある有名なビルですが、このように撮るとモノよりも形の面白さが見えてきます。

 

2・ようすを見る。
 写したいモノが明確でなく、なんとなくその場の雰囲気を写したいことがあります。しかし雰囲気というのは、実体として見ることができない感覚を指していますから、少しややこしい問題です。ですが、そうした雰囲気がよく現れている部分というのがたいていあるはずです。それを探します。さらに、動いている対象の場合には、雰囲気がよりよく現れる瞬間というのがあります。それを見逃さないようにします。
  2・ようすを撮る。
 写真に写っているモノではなくて、そのモノのあり方や雰囲気がよく見える作品です。シャッターチャンスや画面内に写っているさまざまなモノの組み合わせ、構図やバランスが大切です。
作例2A・『出番前』間部光男さん/ 電球の光だけで撮影することで、薄暗い楽屋(?)の感じがよくわかります。ストロボではこういう具合には写りません。
作例2B・『とげ抜き地蔵』宮高智彦さん/ 人込みの中に割って入って撮影しているため、現場の混雑がよくわかります。警備員がこっちを向いているのがミソ。
作例2C・『無名滝の印象』谷田昭三さん/ 1/4秒という比較的遅いシャッタースピードで撮影することで、実際に見えている以上に水の流れが美しく見えます。
作例2D・『ネコヤナギ』山崎曽紀さん/ それぞれの実の形や並び方がリズミカルで、軽快な音楽が聞こえてくるような気分になります。

 

3・光を見る。
「見る」ということは光があって始めて可能になります。しかし、普通私たちは対象を見ていると思い込んで、光を見ているという具合には考えません。写真も同じで、光によって写真が写るというのは頭で判っていても、実際には対象が写ると信じています。対象に当たっている光はどこから来ているのでしょうか。影はどこに落ちているでしょうか。対象を見つめるだけでなく、光を見ることも忘れないでおきたいです。対象はどうというモノではなくても、光の当たり方によってはそれが非常に美しく見えることがあります。
  3・光を見る。
 光と影というのは、それだけで写真のテーマになります。対象を見るのではなくて、光そのものを見ること。そうしてみると、今までに見えなかったものが見えてきたり、一段と美しい写真を撮ることができるようになります。
作例3A・『玄関』桑名厚至さん/ よくよく見ると寂れた玄関なのですが、光の差し込み方と、左の絨毯(?)の色調のために、さわやかな感じがします。
作例3B・『干潟の風景』祖父江幸子さん/ 潮の引きかげんによってできた凹凸に光が当たることで幾何学的な模様のようにも見えます。
作例3C・『二人』清野義雄さん/ タイトルが意味深にさえ思えるのは、影しか写っていなくて、もう一人の人物が誰なのか判らないせいです。
作例3D・『ウインドー』藤原正己さん/ 何のウインドーなのかさっぱりわからないのも面白いですが、人物がシルエットになっていてますます不思議です。

 

4・演出する。
 写したいモノに触れ、動かし、話しかけたり、光の当たり方を変えてみます。そうしてみると、ただ見ているだけでは判らない、新しい側面が見えてくるはずです。さらに背景やいっしょに写っているモノの配置を少し変えるだけで、対象の見え方ががらりと変わることがあります。

 カメラを構えると、どうしてもカメラの操作にばかり気がいってしまいますが、対象に関わり、演出を施すことで、写真は広がりをぐんと増します。というよりも、そこには新しい現実が現れてくるのです。それは、誰も見たことのないものであると同時に、貴方がいたからこそ現れたものということができるでしょう。
  4・演出する。
 そこに在る対象を見るだけでなく、主体的に対象に関わってみること。そうすれば、対象の別の側面が見えてきたり、全く別の次元の世界がそこに開けてきます。もう一つの写真の面白さがここにあります。
作例4A・『天使の輪』岡本淳一さん/ おじさん(上司とのこと)の頭の上にある天使の輪。「馬鹿ですねー」というのはこの場合は褒め言葉ですね。
作例4B・『木に登る少女』荒木博昭さん/ 勝手に登ったのか、あるいは荒木さんが登らせたのか。ちょっと妖しい視線が感じなくもないけれど、いい。
作例4C・『祭りの男女』西根みさ子さん/ おそらく西根さんが二人を配置したのだと思います。ヘンですね。ちょっとシュールというか。だから面白い。
作例4D・『妖美』北川 清さん/ これが撮影会でなければ、明日にでもプロになれます。画面の端から端まで作り上げていく写真にも、一つの楽しさがあります。

 

5・画像処理
 写真は撮影し現像して始めて人の目に見えるものになります。撮影や現像は普通のことでもありますが、それ自体が一つの画像処理といっていいものです。特殊なレンズやフィルターを使うことで、さまざまな効果を得ることができます。露出を変えることで写真の白さ黒さが変わり、色フィルターにより色調も自在に変化することができます。

 仕掛けが判ってしまえばどうということもないのですが、写真のイメージががらりと変わることは確かです。また特殊な技術を使ったり、コンピューターを駆使することで、ほとんど絵のように写真のイメージを変えることも可能です。そんなのは写真じゃないという考え方がないわけではありませんが、自由に遊んでみる方が楽しいと思います。
  5・画像処理。
 演出と同様に画像処理をした写真は、リアリズム的な写真ではないという考え方が一方にあります。しかし、そもそも写真だって一つの画像処理なのですから、あまり狭苦しく考えないようにしたいです。写真に何かを発見できれば、それが写真のリアリティになるのです。
作例5A・『ポニー』松本啓治さん/ 17ミリという超広角レンズで撮影したものです。ポニーの顔の形が歪んでしまっているところに、愉快があります。
作例5B・『枯木』小柳辰夫さん/ 赤外フィルムと濃い橙フィルターの組み合わせで撮影したものです。赤外線という人の目には見えない光が写ります。
作例5C・『タイフーン』宮崎健治さん/ カメラオートで撮影したものですが、おそらく実際よりも不気味さが増しているはずです。写真の露出の妙。
作例5D・『光る花』杉山和男さん/ やや逆光ぎみの光で、ソフトフィルターを使用しています。技術的にはそれだけなのですが、幻想の世界を感じます。

 

何を撮るか、どう撮るか?

 ずいぶん前のことですが、東松照明氏は「私は愛するものしか撮らない」と宣言したことがあります。また、荒木経惟氏も同じようなことを言っていたことを覚えています。当時はよく判らなかったのですが、これが写真にとって最も幸福なことだと、プロとして仕事をするようになって痛感しました。愛せもしない対象を、あたかも愛しているかの如く写すのは、やはり欺瞞的なことではあるのです。

 最近知ったことですが、例えば岩石や昆虫の魅力につかれた人々の多くは、その著作に掲載する写真はたいてい自分で撮っているのだそうです。それがまたとっても綺麗なので二度驚くのですが、なぜだろうと考えて、これはすぐにわかりました。モノに対する愛があるからです。ですから、そのモノの見方を自分なりに持っているのですね。ここがしっかりしていますから、写真の技術を少し学ぶだけでとても綺麗な写真が撮れるようになるのです。要するに、写真の技術などは二の次でよいのです。それよりも何よりも先に対象に惚れこむというのが、写真上達の秘訣なのです。

 ともあれ、他の誰かがではなく、自分は何を撮るか、自分はどう撮るかを考えることは、とても難しいような気がします。でもそれは単純に自分は何を見るか、自分はどう見るかということですし、少しオーバーな表現をするなら自分は何を愛するか、自分はどう愛するかという極めて私的なことがらなのです。ですから、少し身も蓋もないような言い方をすれば、たで食う虫も好き好きということになるでしょう。そうでなければ、自分を見つめなおすか、新しい現実に出会うかしか、答えを見つける方法はないように思います。