世界初の写真であるダゲレオタイプが公開されたのが1839年ですから、写真の年齢はおよそ160歳になります。絵画や文学や音楽に比べるなら、それはまだ大人になりきれない青少年のようなものかもしれません。しかしそれでも一つの歴史を形作ることは確かです。
ただし、写真技術の歴史や被写体の歴史、あるいは写真家の個人史ならば、かなり確実なものが描けるのですが、写真表現の歴史となると、話はかなりやっかいです。写真表現史とは、写真に写されたイメージの歴史ではなくて、写真を撮り、撮られ、見る人々が「いいな」をどのように共有してきたか、の歴史なのです。 今回は読者の写真表現の一助にしていただくために、私なりの写真表現史・観を示したいと思います。
私が本格的に写真に興味を持ったのは、確か18歳の頃ですから、西暦に直せば1979年ということになります。ですからこれ以前は、同時代感覚で写真表現を体験していません。極端に言えば、知らない世界の話です。知らない世界をどのようにして知ったかというと、数多くの書物によるところが大きい。人との出会いもありますが、こちらは濃さという点では一級ですが、幅の広さに少し欠けるようなところがあるような気がします。
とにかくは書物や人との出会いから、私は写真を学びました。なぜそんなことをやらなければならなかったかというと、写真のいいなを感じ続けるために必要だったからです。おそらく多くの人もそうであるように、ある瞬間にある写真に出会い、心底いいなと思えたとしても、数年も経てばたいてい飽きてしまいます。飽きるだけならまだしも、そんな感動など始めから無かったかのように思えてきたりします。
もっとも、それはそれで良くも悪くもない現実なのですが、それでもなお、写真にいいなを感じ続けるには、やはり書物や人に頼るしかなかったのです。もちろんですが、書物や人だけから写真を学んだわけではありません。ここが一つの肝心要で、本当の写真のいいなは写真を撮り、撮られ、見るという体験の中からしか生まれてはこないのです。
ではなぜ人は写真を撮り、撮られ、見続けているのかを考えてみましょう。単純ですね。写真にいいなを感じることができるからです。でも、これでは鶏が先か卵が先かみたいな話になってしまいます。もう少し心の奥に入ってみる必要があります。
私はこう考えるのです。仕事でも勉強でも家事でもそうでしょうが、日常的な生活を延々繰り返すことに、普通の人は退屈してしまいます。いや、退屈などという生ぬるいものではありません。同じことを延々と強制されてやるのは、ほとんど拷問に近い。だから、私たちはちょっと退屈しのぎに趣味をやったり、旅に出たり、温泉で一休みしたりするわけです。写真も基本的にここに始まりますね。この瞬間、つまり日常から開放される一瞬に感じるものは何でしょうか。それは、いいなという気持ちですね。大げさにいうなら、生きてて良かった~という感情です。これは、とても大切なこと。照れくさい言葉でいうなら、生の実感とか生き甲斐ということができるんじゃないでしょうか。
つまり、こういうことです。写真を撮り、撮られ、見ることは、基本的に日常体験ではありません。ですから写真に真実や虚偽、善意や悪意、あるいはや美や醜さを感じることが極めて容易にできます。だからこそそこに、自分が生きていることの意味(生の実感や生き甲斐)を探りだすことができるのです。
少し話がずれますが、リアリティという言葉がありますね。普通にいうと、現実感という意味で、写真にリアリティがあるというと、まるで目の前に本物がいるような感じがする時に使われます。このリアリティという言葉の意味を少し限定しなおしてみましょう。写真を撮り、撮られ、見る時に、ああ生きてて良かった~と感じることとしてみるのです。ここでは、写真の真実らしさが問題なのではなくて、写真に生の実感や生き甲斐を感じることができるかどうか、できるとすればそれはどのようにしてかが問題になるわけです。
このような写真のリアリティを中心軸に据えて、戦前から現在までの写真表現を私なりに整理したものを表1に示しました。少し乱暴ではありますが、大きく5つの時代区分にしてあります。ざっと簡単に説明していきましょう。
Ⅰ・戦前(写真の黎明期)
現在に比べると、恐ろしく写真が高価だった時代です。高価ですから、普通の人には手が出ませんでした。写真家といえば、写真館かお金持ちの道楽です。こういう時代に感じる写真のリアリティとは何でしょうか。それはあまりにも明白ですね。写真を撮るだけで貴族的な気分がします。写真を撮られるのはおめでたい時でしかない。写真を見るのも珍しい時代なのです。写真を撮り、撮られ、見ることは、それだけで非・日常的なものだったのです。
Ⅱ・戦後(写真表現の自立)
敗戦によるいきなりの民主化、そしてグラフジャーナリズムが勃興した時代。それまで口にすることができなかった言葉、見ることができなかった画像があらゆる場所から発芽してきます。この時代、写真はメカニズムであるという事実に立脚点を確保しました。それは機械的なものであるが故に、客観性を担保できると考えられたのです。その一つの展開が、土門 拳の「リアリズム写真」であり、被写体の本質を抉りだすように写真を撮り、被写体の本質を写真で見せようとします。これとは逆に、写真は客観的ではあるが、そこに政治的意図はないと考えることも可能です。こうした考え方の代表が、木村伊兵衛の「スナップ写真」ということができると思います。
Ⅲ・高度成長期(マスメディアへの対抗)
右肩上がりの経済的成長を達成する時代。それと共に、新聞や雑誌やテレビからさまざまな映像が垂れ流し的に流通するようになりました。となると今度は映像のインフレーションといった事態が生まれるわけです。映像は垂れ流し状態ですから、そこに本来あったはずの意味や価値が希薄になっていきます。つまり、写真家にとってみれば、自分自身の意味や価値が失われるような感覚が生じる。そこである日、写真家は発見(発明)します。「私が撮る」ことにこそ意味や価値あるのだと。哲学の言葉でいうと、コギト・エルゴ・スム(我考える故に、我有り)みたいなところでしょうか。
これにも二つの展開があって、一つはそれでもなお世界(非我)と対立(コミュニケート)していこうとする立場と、自分(自我)の殻の中に立てこもりながらもそこから表現を開始していこうとする戦略があります。前者の代表が東松照明の「私の報道写真(いわゆる報道写真に非ず、で非・報道写真としました)」、後者の代表は「コンポラ写真」の森山大道といった位置づけが可能でしょう。
Ⅳ・高度成長の終焉(マスメディアとの協調)
消費が美徳となり、一億総中流化意識が暗黙の常識となった時代にあって、オイルショックや公害といった社会問題が浮上し、先行きへの不安が芽生えてきます。しかし、先行きへの不安などというものを、普通の人は直視したりはしません。そんなものなど始めから無かったかのように振る舞ってしまう。というか、少しばかりの不安があるからこそ余計にお祭騒ぎが盛り上がるものなんです。こうした時代、写真家の芸能化がピークを迎えます。それまでの写真家を重厚な芸術家に例えるなら、この時代の写真家は極めて軽やかで華やかなイメージです。
この展開にも二通りがあって、一つは綺麗な部分だけを表に出し、見せたくない醜い部分は隠蔽しようとする方法と、もう一つは綺麗汚いは人様が勝手に名付ける戯れ言に過ぎないんだからどんどん出してしまえ、とする暴露的な戦術があります。前者が、「超・広告写真(いわゆる広告写真の上をいくという意味で超とつけました)」の篠山紀信、後者が「私小説写真」の荒木経惟を代表格としていいでしょう。
Ⅴ・バブルとその崩壊(オリジナル神話の復権)
アマチュア写真家の増大(とりわけ年配の方が増えました)や一般の人々(女子高生などです)の写真ブームがあります。その一方で、バブル期には写真美術館がいたるところにできました。
いったい何が起こっているのでしょうか。前者は、写真の持つ意味を私たち一人一人が勝手に思ったとおりに使えるようになりつつある現実を示しており、後者には写真の持つ意味を制度化しようとする意思を感じます。これらはどのようなリアリティに支えられているのでしょうか。実は、生きててよかった~という気持ち自体に疑いの眼差しが向けられているのです。生の実感がない、生き甲斐のない時代、こうした言い方はさまざまな新しい社会問題が生じる度に必ず誰かが口にします。写真も、そうした社会の中の一員として、今現在を生きているといってよいのではないでしょうか。
80年代以降、表1に示したようなビッグな存在としての写真家はほとんど登場しなくなりました。意欲的な若手写真家がいなかったわけでもなく、多くの人々が強く待ち望んでいたにも関わらずです。なぜでしょう。私の考えは次のようなものです。表1のⅡ・Ⅲ・Ⅳの時代を一括りにして、写真家のイメージに武士的と記しています。これを具体的にいうと、いわゆるプロカメラマンを指します。マスメディアを介して写真を発表し、写真家として認められる写真家のことです。読者の多くが思い浮かべる写真家のイメージも、やはり憧れの横文字職業としてのプロカメラマンではないでしょうか。
実をいうと、こうした存在自体が幻想の一つなんですが、Ⅱ・Ⅲ・Ⅳの時代にはこれが実体として振る舞うこができました。ここでもう一度、Ⅱ・Ⅲ・Ⅳの時代を広く解釈しなおすなら、Ⅱは真を求める時代、Ⅲは善を求める時代、Ⅳは美を求める時代といった具合にも見えます。真善美という理想が全て出そろっちゃっているんです。ですから、もう他にやることなんてないんですね。要するにこれから先の写真表現を従来型のプロカメラマンがリードしていくといった構図は、もはや考えにくいのではないか。そんな印象が私にはあります。
でもまあ、まことしやかに未来予測をしてみても始まりません。何がどうなるか、一寸先は闇なのか、それさえわからないから写真には未だ希望はあるのだと、いうことにしておきましょう。見方を変える、というたったそれだけの労力で、未来への不安はいとも簡単に解消したりするものですから。
表に示したⅠ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳの時代の表現形式が、読者の作品のなかにどのように見いだせるかを考えてみました。もちろんですが、ここに掲載した作品の作者が、それぞれの表現形式を意識していたわけではないはずです。が、これらの作品を私が見た時、なんとはなしに過去の有名作家の顔が透けて見えるような気がするのです。
というわけで、各2点づつ、計16点の作品を選ばせてもらいました。もっともっと掲載したいのですが、誌面の都合もあり残念です。実をいうと、こうした意識で作品を分類していくのはかなり楽しい経験でした。この作品は、土門 拳かなぁ、いや森山大道も少し入っているなぁ。なんて、かなりいい加減なんですけれども、そのように考えることで、それぞれの作家の考え方の違いや共通性を別の角度から見ることができました。
表1に出ている6人の作家をご存じの方は、これは違うんじゃないかとか、確かにこんなイメージだななどと、笑ってやってください。また、作家の作品をご存じでない方は、なんとなくこんなイメージの写真なんだろうなと、とりあえず記憶しておくと便利かもしれません。もちろんですが、この分類には私の偏見がかなり含まれています。
写真を使って自分自身を表現しようとすると、どうしても人の真似などしたくない気分になります。だからというわけでもないのでしょうが、自分のオリジナリティに自信のある人は、過去や他人に何かを学ぼうとしない傾向が強いようです。でも、一生懸命自分のオリジナリティを追求した結果が、実は過去の作家の作品から一歩も抜け出せてないなんてことも実は多いのです。これを逆にいうと、人から教わらない限り自分では何一つ始めない人はもっともっと多いというべきでしょうか。
だからどうというのでもないのですが、学べるものなら何でも学び、必要なものを吸収し応用して、自分自身の写真表現に役立てていきたいものです。ただし、勉強のしすぎは体にも頭にもあまりよいものではないですから、適当にいい加減にやっていきましょう。
ただし、写真技術の歴史や被写体の歴史、あるいは写真家の個人史ならば、かなり確実なものが描けるのですが、写真表現の歴史となると、話はかなりやっかいです。写真表現史とは、写真に写されたイメージの歴史ではなくて、写真を撮り、撮られ、見る人々が「いいな」をどのように共有してきたか、の歴史なのです。 今回は読者の写真表現の一助にしていただくために、私なりの写真表現史・観を示したいと思います。
私の個人史から。
私が本格的に写真に興味を持ったのは、確か18歳の頃ですから、西暦に直せば1979年ということになります。ですからこれ以前は、同時代感覚で写真表現を体験していません。極端に言えば、知らない世界の話です。知らない世界をどのようにして知ったかというと、数多くの書物によるところが大きい。人との出会いもありますが、こちらは濃さという点では一級ですが、幅の広さに少し欠けるようなところがあるような気がします。
とにかくは書物や人との出会いから、私は写真を学びました。なぜそんなことをやらなければならなかったかというと、写真のいいなを感じ続けるために必要だったからです。おそらく多くの人もそうであるように、ある瞬間にある写真に出会い、心底いいなと思えたとしても、数年も経てばたいてい飽きてしまいます。飽きるだけならまだしも、そんな感動など始めから無かったかのように思えてきたりします。
もっとも、それはそれで良くも悪くもない現実なのですが、それでもなお、写真にいいなを感じ続けるには、やはり書物や人に頼るしかなかったのです。もちろんですが、書物や人だけから写真を学んだわけではありません。ここが一つの肝心要で、本当の写真のいいなは写真を撮り、撮られ、見るという体験の中からしか生まれてはこないのです。
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写真①写真表現を知るためには、言葉は意外なほど大きな力を持ちます。技術書だけでなくさまざまな書物に接してみましょう。図書館や書店で探すことができます。 写真②アンソロジー的な写真集や展覧会のカタログを見ると、写真表現の世界を俯瞰してみることができます。古書店などで探すことができます。 写真③作家による写真集を見れば、より身近に作家の考え方やイメージに触れることができます。大型書店や洋書店などで探せます。 |
写真表現の原動力。
ではなぜ人は写真を撮り、撮られ、見続けているのかを考えてみましょう。単純ですね。写真にいいなを感じることができるからです。でも、これでは鶏が先か卵が先かみたいな話になってしまいます。もう少し心の奥に入ってみる必要があります。
私はこう考えるのです。仕事でも勉強でも家事でもそうでしょうが、日常的な生活を延々繰り返すことに、普通の人は退屈してしまいます。いや、退屈などという生ぬるいものではありません。同じことを延々と強制されてやるのは、ほとんど拷問に近い。だから、私たちはちょっと退屈しのぎに趣味をやったり、旅に出たり、温泉で一休みしたりするわけです。写真も基本的にここに始まりますね。この瞬間、つまり日常から開放される一瞬に感じるものは何でしょうか。それは、いいなという気持ちですね。大げさにいうなら、生きてて良かった~という感情です。これは、とても大切なこと。照れくさい言葉でいうなら、生の実感とか生き甲斐ということができるんじゃないでしょうか。
つまり、こういうことです。写真を撮り、撮られ、見ることは、基本的に日常体験ではありません。ですから写真に真実や虚偽、善意や悪意、あるいはや美や醜さを感じることが極めて容易にできます。だからこそそこに、自分が生きていることの意味(生の実感や生き甲斐)を探りだすことができるのです。
写真のリアリティ。
少し話がずれますが、リアリティという言葉がありますね。普通にいうと、現実感という意味で、写真にリアリティがあるというと、まるで目の前に本物がいるような感じがする時に使われます。このリアリティという言葉の意味を少し限定しなおしてみましょう。写真を撮り、撮られ、見る時に、ああ生きてて良かった~と感じることとしてみるのです。ここでは、写真の真実らしさが問題なのではなくて、写真に生の実感や生き甲斐を感じることができるかどうか、できるとすればそれはどのようにしてかが問題になるわけです。
このような写真のリアリティを中心軸に据えて、戦前から現在までの写真表現を私なりに整理したものを表1に示しました。少し乱暴ではありますが、大きく5つの時代区分にしてあります。ざっと簡単に説明していきましょう。
Ⅰ・戦前(写真の黎明期)
現在に比べると、恐ろしく写真が高価だった時代です。高価ですから、普通の人には手が出ませんでした。写真家といえば、写真館かお金持ちの道楽です。こういう時代に感じる写真のリアリティとは何でしょうか。それはあまりにも明白ですね。写真を撮るだけで貴族的な気分がします。写真を撮られるのはおめでたい時でしかない。写真を見るのも珍しい時代なのです。写真を撮り、撮られ、見ることは、それだけで非・日常的なものだったのです。
Ⅱ・戦後(写真表現の自立)
敗戦によるいきなりの民主化、そしてグラフジャーナリズムが勃興した時代。それまで口にすることができなかった言葉、見ることができなかった画像があらゆる場所から発芽してきます。この時代、写真はメカニズムであるという事実に立脚点を確保しました。それは機械的なものであるが故に、客観性を担保できると考えられたのです。その一つの展開が、土門 拳の「リアリズム写真」であり、被写体の本質を抉りだすように写真を撮り、被写体の本質を写真で見せようとします。これとは逆に、写真は客観的ではあるが、そこに政治的意図はないと考えることも可能です。こうした考え方の代表が、木村伊兵衛の「スナップ写真」ということができると思います。
Ⅲ・高度成長期(マスメディアへの対抗)
右肩上がりの経済的成長を達成する時代。それと共に、新聞や雑誌やテレビからさまざまな映像が垂れ流し的に流通するようになりました。となると今度は映像のインフレーションといった事態が生まれるわけです。映像は垂れ流し状態ですから、そこに本来あったはずの意味や価値が希薄になっていきます。つまり、写真家にとってみれば、自分自身の意味や価値が失われるような感覚が生じる。そこである日、写真家は発見(発明)します。「私が撮る」ことにこそ意味や価値あるのだと。哲学の言葉でいうと、コギト・エルゴ・スム(我考える故に、我有り)みたいなところでしょうか。
これにも二つの展開があって、一つはそれでもなお世界(非我)と対立(コミュニケート)していこうとする立場と、自分(自我)の殻の中に立てこもりながらもそこから表現を開始していこうとする戦略があります。前者の代表が東松照明の「私の報道写真(いわゆる報道写真に非ず、で非・報道写真としました)」、後者の代表は「コンポラ写真」の森山大道といった位置づけが可能でしょう。
Ⅳ・高度成長の終焉(マスメディアとの協調)
消費が美徳となり、一億総中流化意識が暗黙の常識となった時代にあって、オイルショックや公害といった社会問題が浮上し、先行きへの不安が芽生えてきます。しかし、先行きへの不安などというものを、普通の人は直視したりはしません。そんなものなど始めから無かったかのように振る舞ってしまう。というか、少しばかりの不安があるからこそ余計にお祭騒ぎが盛り上がるものなんです。こうした時代、写真家の芸能化がピークを迎えます。それまでの写真家を重厚な芸術家に例えるなら、この時代の写真家は極めて軽やかで華やかなイメージです。
この展開にも二通りがあって、一つは綺麗な部分だけを表に出し、見せたくない醜い部分は隠蔽しようとする方法と、もう一つは綺麗汚いは人様が勝手に名付ける戯れ言に過ぎないんだからどんどん出してしまえ、とする暴露的な戦術があります。前者が、「超・広告写真(いわゆる広告写真の上をいくという意味で超とつけました)」の篠山紀信、後者が「私小説写真」の荒木経惟を代表格としていいでしょう。
Ⅴ・バブルとその崩壊(オリジナル神話の復権)
アマチュア写真家の増大(とりわけ年配の方が増えました)や一般の人々(女子高生などです)の写真ブームがあります。その一方で、バブル期には写真美術館がいたるところにできました。
いったい何が起こっているのでしょうか。前者は、写真の持つ意味を私たち一人一人が勝手に思ったとおりに使えるようになりつつある現実を示しており、後者には写真の持つ意味を制度化しようとする意思を感じます。これらはどのようなリアリティに支えられているのでしょうか。実は、生きててよかった~という気持ち自体に疑いの眼差しが向けられているのです。生の実感がない、生き甲斐のない時代、こうした言い方はさまざまな新しい社会問題が生じる度に必ず誰かが口にします。写真も、そうした社会の中の一員として、今現在を生きているといってよいのではないでしょうか。
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| 表1 私の写真表現史・観 戦前から現代にかけての国内作家による写真表現史を私なりに整理したものです。少し乱暴な分け方ではありますが、そこそこ妥当なものにはなっていると思います。大切なのは、古い表現形式は時代後れだというのではなく、それぞれの表現形式は全て現在(あるいは個人)の写真表現の中に見いだせるということです。ケーススタディも参照してください。 なお、表中の右翼-左翼の分け方は大政治でいうところの右翼-左翼とは一切関係ありませんので、念のため。 |
それから?
80年代以降、表1に示したようなビッグな存在としての写真家はほとんど登場しなくなりました。意欲的な若手写真家がいなかったわけでもなく、多くの人々が強く待ち望んでいたにも関わらずです。なぜでしょう。私の考えは次のようなものです。表1のⅡ・Ⅲ・Ⅳの時代を一括りにして、写真家のイメージに武士的と記しています。これを具体的にいうと、いわゆるプロカメラマンを指します。マスメディアを介して写真を発表し、写真家として認められる写真家のことです。読者の多くが思い浮かべる写真家のイメージも、やはり憧れの横文字職業としてのプロカメラマンではないでしょうか。
実をいうと、こうした存在自体が幻想の一つなんですが、Ⅱ・Ⅲ・Ⅳの時代にはこれが実体として振る舞うこができました。ここでもう一度、Ⅱ・Ⅲ・Ⅳの時代を広く解釈しなおすなら、Ⅱは真を求める時代、Ⅲは善を求める時代、Ⅳは美を求める時代といった具合にも見えます。真善美という理想が全て出そろっちゃっているんです。ですから、もう他にやることなんてないんですね。要するにこれから先の写真表現を従来型のプロカメラマンがリードしていくといった構図は、もはや考えにくいのではないか。そんな印象が私にはあります。
でもまあ、まことしやかに未来予測をしてみても始まりません。何がどうなるか、一寸先は闇なのか、それさえわからないから写真には未だ希望はあるのだと、いうことにしておきましょう。見方を変える、というたったそれだけの労力で、未来への不安はいとも簡単に解消したりするものですから。
ケーススタディ
表に示したⅠ・Ⅱ・Ⅲ・Ⅳの時代の表現形式が、読者の作品のなかにどのように見いだせるかを考えてみました。もちろんですが、ここに掲載した作品の作者が、それぞれの表現形式を意識していたわけではないはずです。が、これらの作品を私が見た時、なんとはなしに過去の有名作家の顔が透けて見えるような気がするのです。というわけで、各2点づつ、計16点の作品を選ばせてもらいました。もっともっと掲載したいのですが、誌面の都合もあり残念です。実をいうと、こうした意識で作品を分類していくのはかなり楽しい経験でした。この作品は、土門 拳かなぁ、いや森山大道も少し入っているなぁ。なんて、かなりいい加減なんですけれども、そのように考えることで、それぞれの作家の考え方の違いや共通性を別の角度から見ることができました。
表1に出ている6人の作家をご存じの方は、これは違うんじゃないかとか、確かにこんなイメージだななどと、笑ってやってください。また、作家の作品をご存じでない方は、なんとなくこんなイメージの写真なんだろうなと、とりあえず記憶しておくと便利かもしれません。もちろんですが、この分類には私の偏見がかなり含まれています。
写真を使って自分自身を表現しようとすると、どうしても人の真似などしたくない気分になります。だからというわけでもないのでしょうが、自分のオリジナリティに自信のある人は、過去や他人に何かを学ぼうとしない傾向が強いようです。でも、一生懸命自分のオリジナリティを追求した結果が、実は過去の作家の作品から一歩も抜け出せてないなんてことも実は多いのです。これを逆にいうと、人から教わらない限り自分では何一つ始めない人はもっともっと多いというべきでしょうか。だからどうというのでもないのですが、学べるものなら何でも学び、必要なものを吸収し応用して、自分自身の写真表現に役立てていきたいものです。ただし、勉強のしすぎは体にも頭にもあまりよいものではないですから、適当にいい加減にやっていきましょう。





