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1.見る感動から始める。

 皆さんは写真に何を期待しているでしょうか? きっと千差万別、人によりけり、いろんな人がいろんなことを期待しているはずです。でも、おおもとにあるのはただ一つ。自分がいいなと思える写真を、他の人も一緒になっていいなと感じてくれる。いってみれば「いいな」の共有感覚が欲しいんじゃないでしょうか。自分一人じゃ決してない。他の人も一緒になって感動するというのが一番なんです。これ、考えてみれば、他の全ての表現についてもいえることですよね。

 では、写真を使って「いいな」 という気持ちを共有するためには、どうすればよいのでしょうか? そんなことを考えるのが「写真表現法」です。難しいでしょうか? 簡単でしょうか? いずれにしても、やってみないことにはわかりません。とりあえずやってみる。そして考える。次にはもっと上手くやる。その繰り返し。難しいでしょうか? 簡単でしょうか? 

カメラの原型は「暗い部屋」。

 ピンホール(針穴)カメラという言葉を聞いたことがあるはずです。小さな穴をレンズ代わりにしたカメラのことです。昔は使われていたけれども、今では絶滅してしまった珍しいカメラ。そんなニュアンスがあるかもしれません。でも、ピンホールカメラでちゃんと撮影できるようになるのは、フィルムの感度があるていど高くなってからのことです。昔の写真には使われていません。ちょっと意外でしょう?

  ではなぜ、ピンホールカメラは古い気がするのかというと、それはカメラの原型だからです。ちいさな穴が一つ開いているだけのとてもシンプルな作りをしています。写真①にその原理の図を示しました。古そうな絵ですね。ピンホールカメラは昔からあったことがこれでも判ります。実をいうと、こうした原理は西暦紀元前から知られていました。アリストテレス(紀元前384 ~322)が語っていたという話もあります。真偽のほどは私にはよくわかりませんが、それでも節穴のある暗い部屋さえあればよいわけですから、わからない話ではありません。ちょっと話がずれますが、カメラの語源はラテン語の「カメラ・オブスュラ」で、意味は「暗い部屋」なんだそうです。つまり、まさにこの絵がカメラの原型だというわけです。

写真①

ピンホールカメラの原理

 1544年1月24日の日食をカメラオブスキュラで観察したようすを、オランダの数学者R.ジェンマ・フリシウスが記したものだそうです。(写真提供・日本カメラ博物館)

 でも、光が小さな穴を通して暗い部屋に入り込み反対側の壁に画像を写す(それも天地左右さかさまにです)という現象に初めて気がついた人は、きっとびっくりしたはずです。はじめの一瞬は何がなんだかわからなかったに違いありません。この感動を私たちも追体験してみたいものです。

 もちろん、この絵のような部屋を実際に作ればよいのですが、私たちにそんな余裕はありませんから、かなり小型のものを作ってみましょう。

 写真②に光が入らない金属製の空きカンと、買い物に使われる乳白のビニル袋を使ってピンホールカメラを作る手順を示しました。簡単ですので、ぜひ自作してみてください。


写真②A~E 簡単なピンホールカメラの作り方  もっとも手軽に作れる方法を示しました。いろいろなもので代用できますので、ぜひご自分で作成し、画像を観察してみてください。
A 光を通さない金属製のカンの中央部に千枚通しや釘などで穴をあけます。 B 穴の直径は1~2ミリがよいでしょう。小さくすると画像はきれいに見えますがとても暗くなります。 C 買い物に使う乳白のビニル袋を切ります。トレーシングペーパーなどでもOKです。
D 穴の反対側に乳白のビニルを張ります。ピンと張った状態にしてセロハンテープなどでとめます。 E 黒紙をフード状に取り付けて完成です。もし面倒なら、黒い布を被って観察してもいいでしょう。 F 三脚につけたところ。観察するだけなら手持ちで十分です。

 

見えている世界が、そこに在る! 

写真③

 ピンホールカメラに写る像

黒紙をフード状に取り付けて完成です。もし面倒なら、黒い布を被って観察してもいいでしょう。

 上の写真③にピンホールカメラに写った画像を示しました。これを見るだけでも、「ええっ、こんなに写るの?」って思うはずです。が、ぜひ、実際に自作し自分の目で見てください。始めのうちは、見方がよく判らなかったりするかもしれません。が、乳白ビニルの上に、向こう側の世界がひっくりかえって写っているのが見えた瞬間、「オオッ」などとついうっかり声がでてしまったりします。感動します。さらに、これを家族や友人などに見せると、同じように感動してくれるはずです。感動が共有される。「いいな」の共有感覚が、こんな安っぽいピンホールカメラで実体験できるのです。

  さてさて、では、なぜ私たちはこんな単純なことに感動するのでしょう? 不思議ですよね。私は、この感動を次のように考えています。

 つまり、自分の目で見るというのは、放っておいても誰もが体験している普通のことです。しかし、自分の目で見ているイメージは、そのままでは人に伝えられないんです。共有できない。目を移植しようが、脳を移植しようが、無理です。しかし、ピンホールカメラに写っている画像は、自分の目で見えているそのままでありながら、そこに在る画像です。そこに在る画像ですから、他の人と共有できます。

   これは画期的なことです。自分の脳の中にしかないイメージが、外に取り出されているのに等しいからです。

  この画像をこのままここに定着したい!と、おそらく誰もが思うはずです。もしそれができれば、この画像は写真という「物」となって、それこそ万人に共有され、時代を超えることさえ可能になるのです。

  しかし、これがなかなかできなかった。アリストテレスの時代から2000年以上もの間、人々は指をくわえてこれをじかに見ているしかなかったのです。

写真の始まり。

  こうしたわけですら、さまざまな野心家がこの難問に挑んだことはいうまでもありません。この難問には、大きく二つの要素があります。一つは、実際にピンホールカメラの画像を見た方はお判りのはずですが、画像がとにかく暗いのです。これを解決するにはあるていどの性能のある光学レンズが必要でした。ただ、これは16世紀ごろにはできあがります。写真④⑤に示したようなもので、画家が絵を描く際に使われていました。画家としてはずいぶん怠慢な人達だと思いますが、光学レンズによってたいへん明るくシャープな画像を得られたからできたことなのです。

  さて、ここまで来れば、写真誕生まであと一歩。しかし、この一歩を歩むのに、さらにあと3世紀が必要でした。難問のもう一つの要素である、画像を定着する技術が完成しなかったのです。これには画像のもとである光をダイレクトに写し取り、しかも長期的に安定させる必要があります。ご存じのとおり、これにはフィルム(感光材料)の制作、露光、さらに現像および定着という複雑なプロセスを必要とします。

 実用的なレベルでこれに始めて成功したのが、ルイ・ジャック・マン・デ・ダゲール(仏/1787~1851)です。それはダゲレオタイプとよばれ、1839年8月19日にフランス科学アカデミーで公開されることになります。

  と、なんだか写真の歴史になってしまいました。話を現代の私たちにもどしましょう。

写真④

絵を描くために使用されたカメラオブスキュラ

 イギリス製で1790年頃のものです。画面サイズは6×6センチといいますからちょうど6×6判カメラを想像してもいいでしょう。レフレックスタイプですから、画像の天地が正しく観察できます。(写真提供・日本カメラ博物館)

写真⑤

カメラオブスキュラの原理図

 写真④に示したようなカメラオブスキュラの原理図です。現在の一眼レフカメラのファインダーの光学系とまったく同じですから、ちょっと驚きます。(写真提供・日本カメラ博物館)

写真⑥ 一眼レフカメラのフィルム面の画像を観察する。
  シャッターを開けた(バルブ)状態で裏蓋が開くカメラをお持ちなら、フィルム面に乳白ビニル(買い物袋でOK)を張りつけるだけで、画像を観察することができます。

A/レンズ越しに見た画像。レンズ部分に見えるのは虚像です。 B/フィルム面に乳白ビニルを張りつけると、実像が写って見えます。ピンホールカメラの像に比べると格段に明るく、しかもシャープです。 C/ただし、いいことばかりではなくピントを合わせる必要があります。これはピントがあっていないピンボケ状態です。

ケーススタディ

記念写真から始めよう。

 毎回ここでは、読者がコンテストに応募された作品の中からテーマにそったいくつかを選び、それらを見ながら写真表現について考えていきたいと思います。今回は、誰もが一度は撮影し、多くの人が写真を始めるきっかけになる「記念写真」がテーマです。

記念写真という言葉に、皆さんはどんなイメージを想像するでしょうか? 七五三、入学式、卒業式、入社式、結婚式、銀婚式、還暦などなど、これらは人生における記念日として誰もが認めるものです。おめでたい日。一生に一度しかない大切な日。本当にそうなのかどうか? は実のところ私にはわかりませんが、これらは全てプロにお願いして撮影することが多いものです。そして、そのイメージは誰もがほとんど同じものを思い浮かべるはずです。それが、ちゃんとした記念写真。

 そして、マアチュアや友人知人が撮影するスナップ写真的な記念写真があります。これはプロが撮るちゃんとした記念写真を核にして、その周辺をいろどる写真といっていいでしょう。プロの写真にはないさまざまな珍景、きどらない笑顔、型にはまらない個性といったものがそこには写し出されることになります。作例1~4に、そんな写真を選んでみました。

 そこで考えてみます。

作例1 作例2 作例3 作例4
プロの写真とそうでない写真。

 これらの写真は技術的に上手かろうが下手だろうが、作者や被写体にとって、かけがえのないものです。ここが一番大切なところ。決して忘れてはいけない写真のスピリッツ(魂)です。

 そういえば、ある写真館の人が次のようなことを言っていました。「子供のころの写真が七五三の営業写真だけで、あとは父親の撮影したサービスサイズのプリントしか持っていないのは、文化的にまずしい人である」と。彼を非難するつもりはありませんが、こうした考えは間違っています。どんなに技術的に完成された営業写真館の写真であろうと、父親が写したという事実の重みにはとうていかないません。いくら下手であろうと父親が写した写真のほうが大切だと私は思います。

 ただ、ぜいたくを言えば、父親が写す写真は、その父親にしか写せない写真であって欲しいという一点です。この一点が、普通の記念写真が、写真を使った表現へと突き抜けるための突破口になります。

 作例1の鯉のぼりを並べて子供を乗せるというアイデア、作例2はいかにも普通ですが自分がその場所にいたという事実、作例3では花嫁に向けるちょっとあやふやな視線が、作例4では天真爛漫とした笑顔が、突破口を開くための一点になるように私には思えます。

 でも、突破口を開くのは難しいような気もします。なぜなら、これらの記念日のイメージはかなり固定化されていますから、なかなか壊せないんです。いやべつに壊す必要はありませんが、上手く撮ろうとすればするほどプロの写真になるしかないんです。作例4は、その一歩手前といった感じがします。撮影技術もちゃんとしていますし、とてもいい写真なんですが、何か面白みに欠けるような気がする。なぜかというと、写真が上手いために、逆に作者の顔が見えなくなっているからだと思います。下手でもいけないし、だからといって上手くてもいけない。こうした矛盾を超える必要があります。難しいですよね。

別の突破口。
作例5 作例6 作例7 作例8

  作例5~8も、記念写真といってよいものでしょう。でも、何かの記念日というのとはちょっと違います。では、何を記念しているでしょう。作例5は作者が浴衣姿の娘さんたちに出会った記念、作例6は家族(かな?)でピクニックに出かけた記念、作例7はおおきな魚が採れた記念、作例8はグループ旅行に行った記念です

。  こうしてみると、何でも記念にできそうですね。朝起きた記念、ご飯を食べる記念、布団を敷く記念などなど、そんな馬鹿なっていう気持ちもありますが、そんな風に毎日が送れたらどんなに幸せだろうとも思います。

 でもこれは、写真にとって(人生においても)大切なことですよね。  カメラを持つと何気ないものが普段と違って見えてくるといった経験は、誰もがお持ちのはずです。カメラを持つと「見る」意識が変わるからなんですね。カメラを持つだけで変わるといってもいい。

 話を記念写真に戻します。

 多くの人は、何か特別なことの記念に写真を撮ります。でも、こうした写真は、何か特別なことのオマケでしかないんです。悪く言えば、あってもなくてもいい。だってオマケなんですから。  こうした考え方をちょっとひねってみましょう。

 つまり、写真を撮ること自体を記念にしてみるわけです。例えば作例5なら、浴衣の彼女らにちょっとポーズをつけさせてみます。「こんな風にしてみて」って作者がポーズ指導してみる。すると彼女らみんなが笑いだすかもしれない。チャンス! 作例6なら、お母さんが娘さんを肩車にしてトーテムポール! とか、作例7なら「その魚を食べてみてよ」なんていうと、彼、目を丸くします。チャンス! 作例8なら主役の彼のアップを撮りにいってみると、場の雰囲気がちょっと変わった盛り上がりをみせるように思います。

 こうしてみると、今まで見えなかった世界がそこに開けてきます。というか、撮影そのものが楽しくなるはずです。ただの記念写真が、作者のちょっとした冒険によって、より深みのある記念写真になる。それは、その作者にしか撮れない写真なんです。なんか、希望の光が見えてきたような気分になりませんか?

 写真を撮ることを被写体といっしょに楽しんでみましょうよ。名作を撮ろうなどと一生懸命にならず、撮影そのものを遊んでみましょう。そうするだけで、あなたにしか撮れない名作がどんどん撮れるようになるはずです。技術は放っておいても、後からついてきてくれます。