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11.「裸体」の魅惑

「最近は女性の意識も変わってきたから、ヌードの撮影なんてのも増えてるんでしょう?」なんて、時々尋ねられます。増えているも何も、だいたいお客さんの数が数ですから、私には答える術がありません。しかし、そうした依頼があることは確かです。

 ほとんど全ての男性諸氏が思われるように、もっともっとこうしたお客さんが増えてくれれば嬉しいことこの上ないのですが、いやいや、こういう事を口に出してしまうから、本来なら来るべきお客さんまで失ってしまうのでしょうね。きっと。ま、下心は下心と捨て置いての話。実をいうと、こうした依頼を受けるに当たっては、少しばかりの戸惑いがあることも事実だったりするわけです。その理由のあれこれを考えてみました。

『NUDE』の頃。


『NUDE』全4冊。奥付のアシスタントの項目に名前が残っています。古本屋で意外な高値が付いていて驚いたことがあります。
 ほぼ10年前。1987年から91年に渡って、全4冊。朝日出版社から伊藤俊治責任編集『NUDE』が刊行されました。世界各国のヌード写真を集めた写真集とでもいえばいいでしょうか? 

 もちろん、今にしてみればバブル経済真っ盛りの、あの時代の雰囲気をそこはかと感じてしまうのですが、それでも写真における裸体像に対して、ある種の新しさを見出そうとした意欲的な企画だったことは確かでした。

 とかいうのも、当時、私はこれらの編集作業のお手伝いをして日銭を稼いでいたからで、何のことはない、これは思い出話。思い出ついでに加えておくなら、この『NUDE』に先行して、83年から86年にかけて毎日新聞社から『NEW NUDE(全3冊)』が発行されています。

 編集方針はほぼ同じと考えていいでしょうが、当時としてみればかなり過激な部類に入れられるのは確かです。この3冊目が発売される1年ほど前に「カメラ毎日」は休刊になりました。そして、『NUDE』以降と言えば、篠山紀信氏撮影による一連のヘアヌード写真集が、同じ朝日出版社から出版されています。

 ですからこの頃を境に、ヌード写真に対する社会的なイメージが大きく変化したように感じるのは、きっと私だけではないはずです。一番のキーワードになるのは、もちろん「ヘア解禁」ですけれど、これはとりあえずの話題ではありません。そうではなくて、何といいましょうか。

 あくまで私見と先に断りを入れておきますが、かつて男性の思い込み優先で創造されてきたヌード写真のイメージに、この頃から女性の目が深く介入してくるのです。

 もっとも、これこそが世の趨勢といっていいものなのでしょうが、これがいいことなのかどうなのか、そしてまたこうした情況の中で(私という男性の)写真家のなすべきことは何なのか、といったさまざまは、未だに胸の内で整理がついていないのです。

 こうした次第ですから、ヌード写真を考えることも撮ることも含めて、私はこれを一番最後に食べるデザートのようなものとして、できるだけ先のばししているのが現状なのです。一番の好物は一番最後に食べるのが、一番美味しいっていうのは、それこそ子供じみた考え方ではありますが。

 だからこそ、ヌード撮影依頼に戸惑うのです。もちろん嬉しいのですよ。仕事としても、男としても。しかしながら、もはや男性の目で視て撮ればすむ時代ではないのです。だから困る。困るけれど、撮影はやっぱり楽しかったりするわけです。

 ううむ、何の話をしているんでしょう、私は。



ヌードのイメージ。

 ともかく、ヌード写真を撮りに来られる方は、どのように撮られたいのかというイメージがかなりハッキリしています。そもそも裸を見知らぬ人に撮ってもらうこと自体にかなりの覚悟がいるはずで、だから本人の意思がかなり明確なんだろうと想像しています。それに加えて、ヌード写真には、写真館で撮る普通の写真のような定型がありませんから、全てお任せしてそれで満足、という具合にはまず行きっこありません。

 ただ、もしヌード撮影が本当のブームのようになってしまったら、何にも考えていないお客さんも増えてくるんでしょうけれどね。こうした事態の到来を喜ぶべきか、悲しむべきか? いや、それ以前に、このようなブームが起こるとは、私には考えられません。

 時折、テレビの深夜番組などでヌード撮影がブームの兆し! なんてぇのが紹介されたりしますけれど、やっぱりこれはまだまだ特殊の部類じゃないかと思います。もしかすると、私が知らないだけで、ヌードを撮影したい女性がずらりと行列を作っているような写真館があるのかもしれません。いいなぁ。ただし、メディア(有名女性雑誌+有名カメラマン)を介してという条件なら、これは実在しました。

 ともあれ、なぜヌードは特殊かというと、これは当たり前で、基本的に裸は誰彼となく他人に見せるものではないからです。これは、プライバシーとか猥褻とかいう高級な問題ではなくして、衣装を身につけるのが人の人たる所以の一つであるからでしょう。裸は隠される。だからこそ、裸は商品になりえるのです。

 ここで少し見方を変えてみると、ヌード写真を撮りたいと希望する方は、基本的に身体に自信があるわけですね。自信とまではいかなくても、愛着があることは確かでしょう。ダイエットなのか、エステなのか、スポーツなのか、何をどうしているのか詳らかでありませんが、とにかく綺麗です。とすればですね。要するに、彼女/彼の裸というのは、もうそれだけで一つの衣装と考えていいように思うのです。天然自然の衣装、それが裸。こう考えると、ヌード撮影も決して特殊というわけではなくなります。

 皆さん、どんどん裸になりましょう!

ヌードダンサーという仕事。

 ここに掲載しているのは、お二人のダンサー。キサラギ サラさんとサクラコさんの写真です。知人の紹介で来店なさったのですが「どんな踊りなんですか?」と訊ねて、「ヌードダンサーです」と返ってきた一瞬、眩暈がしました。それならそうと、最初っから言っておいてくれればいいのに、と知人を少し恨みました。私にも私なりの心の準備があります。  これらの写真は、モノクロを除き、彼女らの宣伝材料用に使われるものです。仕事はだいたい地方が多く、別の営業方法はありませんから、仕事が入るも入らないもこれらの写真に掛かっているのだそうです。  ますますのプレッシャー。  聞けば、最近は本当に厳しいそうですが、キャバレー全盛だった60年代あたりのダンサーの世界ってとても華やかだったそうです。一つの店で踊るのは10分くらい。ギャラとは別にお客さんが弾むチップは一万円札(もちろん当時の!)が相場。それを掛け持ちするのですから、もう大変。それが今では、疲れ切るまで踊り続けて、チップは握手。なんて情け無いこともあるといいます。  なんか、なんかですよね。  でも、カメラの前でとるポーズ、身体の動かし方は流石、何をどうやってもキマルわけです。プロですもんね。当たり前。ですから私、写真を撮るというより、ほとんど撮らされているような体たらくでした。ついうっかり、予定しているフィルム本数の3倍くらいは撮ってしまったとはいえ、こんなんでお金を戴けるのですから、写真館というのは本当にいい職業です。皆さんもぜひお始めになるといい。特に男性諸氏。羨ましいでしょう?

「鏡」と「窓」と。


 このお二人の写真は、基本的に他人に見せるためのものです。他人といっても、誰でもよいというのではなく、選ばれた人しか見ることはできませんが、とにかくは他人に見られることが目的の一つに組み込まれています。

 ところが、そうではないケースもあります。他人に見せるためでなく、ヌード写真を撮るのです。もちろん全く誰にも見せないというのではなくて、本当に気心の知れた友人など(恋人や配偶者の立場になってみるとちょっと複雑かなぁ)には見せるのですが、しかし基本的には見せないことがこの写真のアイデンティティになるわけです。これがよく判らない。誰にも見せないなら写真に撮ることもなかろうに、と私はつい考え込んでてしまう。まこと、女心の不思議といっていいでしょう。

 ずいぶんこの不思議を考えていて、最近、やっと答えらしいものが見つかったような気がしました。それが「鏡」と「窓」。永く写真をやっている方は、これらの言葉にきっと懐かしさを覚えるはずです。「鏡と窓」、「ミラーズ・アンド・ウィンドーズ」。ちょっと話はズレますが、この昔話をしておきましょう。

 写真展「鏡と窓」は、1978年から80年に掛けて、ニューヨーク近代美術館での開催を皮きりにアメリカ各地を巡回した展覧会です。企画者は、同美術館の写真部長ジョン・シャーカフスキー。1960年以後のアメリカの写真表現を展望したものです。タイトルからも察しがつくよう、自己を写す鏡としての写真と、社会を見るための窓としての写真とに、大きく分けて展示されました。

 日本でも、カメラ毎日に大きく取り上げられるなどして、当時の写真家たちに少なからぬ影響力を持ちました。実は、この記事には秋山先生も深く関わっています。当時の秋山先生は(今でもそうですが)、本当に雲の上の存在だったことを記憶しています。ですからもちろんのこと、この展覧会を私が知ったのは、80年代も半ばを過ぎてからのことになります。

 とまれ「鏡と窓」とは、まことにもっていい標語ですね。写真を考えるとき、この二分法を使えば、いろいろなことがわかるような気がします。

 さて、本題はここからです。「鏡と窓」は写真表現を写真家の立場で考えたものです。ですから、実際に写真を撮影したり人に見せたりしている皆さんが写真を考える時にもかなり有効です。ただ、少し考えてみれば判るように、写真というのは、鏡的な性格も、窓的な性格も、常に両方があるわけです。どちから一方しかない写真には、まずお目にかかることはできないはずです。

 でも、これを被写体の立場、特にヌード写真を撮られる人の立場で考えてみると、意外に面白いんじゃないかと思ったわけなのです。ここで「鏡」は写真を使って自分自身を見ることで、「窓」は写真を使って自分を他人に見せることを意味します。こう考えると、先に述べたヌード撮影の二つのタイプが綺麗に別れます。では、この考え方を少し展開してみましょう。 「鏡」
 写真に自分を写すのはなぜでしょう。自分が今、ここに在ることを残しておきたいからですね。写真は光学的に正確ですから、そこには光学的に正しい自分のイメージが写ります。この正しさは、普遍性と容易に結びつくことができます。万全な記録。これが鏡としての写真の本質です。



 自分が写った写真を人に見せるのはなぜでしょう。仕事を貰うため、配偶者を貰うため、コンテストに入賞するため、選挙に当選するため、などなど。要するに、自分を別の世界に導くための道具としてですね。この場合、写真のイメージは鏡のように正確であるよりは、化粧をし、いい衣装を着、演出を施して、相手に好感をもって見て貰う必要があります。作られた(作った)イメージ。これが窓としての写真の本質といっていいでしょう。

 ああ、綺麗さっぱり収まった。と思いたいところですが実に苛立たしいことに、結局、元の木阿弥であったことに気付くわけです。写真を撮られる側からしても、「鏡」と「窓」をばっさりと二つに分類することはできそうもないですね。一枚の写真には、常に両方の意識が混ざり合っているのが普通です。とりあえず片方だけのつもりでも、少し時間が経てば、別の方面の性格が強くなったりすることもあります。

 何をやっているんでしょう。私は。

 でも、こういう具合には言えるかもしれません。つまり、「鏡」と「窓」は、写真のイメージを織りなす縦糸と横糸のようなものではないか、と。こうしてみると、なんだか気分です。いいでしょう、コレ。

写真館とメディアと。

 そしてもう一つ気付いたことがあります。写真館で撮る写真と、雑誌や広告で撮る写真を単純に比較した時、ここにも「鏡」と「窓」のような違いがあるのではないでしょうか。  写真館で撮る写真は、基本的に自分たちが見るためで、赤の他人に見せることを目的としているわけではありません。だから「鏡」。逆に、メディアの中で撮られる写真は、その目的の第一ができるだけ多くの人に見て貰うことにあります。だから「窓」。ここに、先に述べた「鏡」と「窓」の本質を重ね合わせてみると、これらの写真のイメージの違いが浮き彫りになってこないでしょうか。

 でも、少し考えて貰えばわかるように、この「鏡」と「窓」も、きっちり二つに分類することはできそうもないですね。ですが、写真家の立場や被写体の立場で考えた時よりも、この別れ目はかなり深いように思うのです。なぜかというと、写真館とメディアは、もともとお互いがお互いを切り離すようにして、それぞれの存在を主張してきたから。などというのは、ちょっと穿ち過ぎでしょうか。

 あれま。裸体の話をしていたはずが、とんでもない場所に来てしまいました。このあたりで話を切り上げることにしましょう。ただ、ここに来て思うのですが、何にしても表現の基本とは、自身が裸になることですね。というよりも、より裸になった表現の方が絶対的に強いのです。

 これは、これこそは真実だと思います。難しいのは一つだけ。如何に裸になるか、ということだけでしょう。