人の写真、とりわけ身内や友人知人の写真を撮ったり見たりする際に私たちが最も気にするのは、いい表情をしているかどうか、ではないでしょうか。これは当然のことながら撮られる本人にしても大きな問題です。基本的には、誰でも、いい表情の写真を撮りたいし、撮られたいのです。しかし、これがなかなか上手くいきません。いったい私たちはどうしたら、いい表情の写真を得ることができるのでしょうか。
今回は、個人の人生を代表する一枚の写真としての寿像(遺影)を通して、写真に写る表情とは何か、あるいは写真に見える表情とは何かをお話してみようと思います。
▲隣の婆さんのこと。
隣の婆さん(右ページ)が亡くなられました。数年前から入退院を繰り返すようになり、つい最近では家族の方から危篤に陥ったという話も聞いていましたから、特に驚くようなことはありませんでした。でも、ここに写真館をつくった当初、朝方になると必ずご自宅の前だけでなく、私の店の前までをも箒で掃除してくれていた姿を思い出しました。箒の音は、今でも耳に残っています。
写真は『笑う寿像・展』を口実にして撮影したのでした。入退院を繰り返していた頃、娘さんとも相談しながら一番具合の良さそうな時を選びました。その時はあまり深くは考えなかったのですが、実際に遺影として使われることになって、果たせなかった思いがくっきりと見えてきたように思うのです。
婆さんは、この写真を見ずに亡くなったのでした。しかも、それがこともあろうに『笑う寿像・展』に使われたことも、おそらくは知らなかったはずです。これは遺族の配慮でしたし、私もそれを認めてもいたのです。もっとも、本人はそれとなく察していたのかもしれませんが、見ていないという事実は変わりません。
葬式が終わって遺族や近所の方々から、「あの写真は良かったね」とお褒めの言葉を数多く頂きました。これはこれで、まことにもって写真家としてみれば最上の気分ですし、男子一生の仕事とするに悔いはなしとも思えたのですが、たった一点だけ、この写真を婆さん自身に見せてあげたかったなというのが心残りで仕方がありません。
▲仕事と趣味と人生と。
さて、話は『笑う寿像・展』の準備段階に遡ります。この企画は、自分の遺影を自分で考えるというのが、基本的なスタート地点です。
しかし、ここで私は少し面食らってしまいました。なぜかというと、ほとんど全ての人のイメージが自分の趣味を反映させたものだったからです。仕事につながるイメージを考えた人はただ一人、煙突掃除屋さんだけで、しかしこれは例外。なぜかというと、煙突掃除は仕事自体がなくなってしまったという郷愁の意味が込められていたからです。
ほとんど全ての日本人は、趣味よりも仕事(家事や勉強を含む)により多くの時間を費やしているはずです。であるなら、その人のイメージとして仕事が反映されるのは当然だろうと思っていたのです。しかし、そうではありませんでした。
これは仕事に誇りが持てないのと同じではないか、と一瞬考えて、これは直ぐに撤回しました。そうではなくて、自分が自分らしさを自分自身で感じられる瞬間というのは、仕事ではなくて趣味であろうと思ったからです。もちろん、理想を言えば、仕事を趣味のように楽しめることでしょうが、これはあくまで理想論。
振り返って自分自身はというと、やっぱりカメラを持っている遺影なんて嫌なんですね。この話を秋山先生にしたら、先生もそうだと仰る。なぜでしょうと聞くと、「そりゃ、ハマリ過ぎだからじゃないの?」という答えでした。
本当のところはわかりません。でも、仕事が人生を代表するイメージにならないこの国って一体なんなんだろう、と形式的な頭は思い悩んだりもするのです。が、本当はそうじゃなくて、遊び心のない肖像写真にはなんだか照れくささが付きまとうだけの話ではないかと思うのです。
写真の画像というのは科学的に正しい画像です。しかし、いくら科学的に正しいからといって、それこそが現実だ、お前はこんな顔をしているのだと目の前に突きつけられるのはやはり嫌なものですし、逆に、理想を絵に描いたような写真というのもなんだか気分ではありません。こうした気持ちの溝を埋めてくれる唯一は、遊び心であり、笑いではないかと思うのです。
こうした意味で、型にはまらないいい表情の遺影がもっともっと増えていく環境は、既に整っているんではないかと私なんかは楽観的に考えるわけです。
▲ いい表情とは何だろう。
情というのは「こころ」を意味する漢字ですから、表情と書いて「こころを外に表す」といった意味になることは常識といっていいでしょう。
ですからいい表情というのは、その人の心持ちがいい状態であることを意味するわけです。これが基本です。しかし、心持ちは決してよくないのにいい表情を作れる、つまり演技力に長けている人がいます。その反面、いい心持ちでいるのにそれを上手く表現できないタイプの人もいたりします。ですから、当人をどのくらい知っているかによって、表情の読み方は違ってきます。赤の他人がいいと思える表情でも、家族や友人などに言わせるとこれは良くないということが往々にしてあります。それでもって、当人自身はどうかというと、何が何だかよく判っていないのが実情だったりするのです。とにかくは厄介です。
時々、こう思うことがあります。いい表情も悪い表情も、結局はそれを見ている人の心の問題でしかないのではないかと。わかりやすくいうなら、他人の表情を鏡のようにして、私たちは自分自身の心のあり方を見ているのです。考えてみれば、自分で自分を感じるというのはとても難しいことです。それよりも、他人を介して自分を感じる方が私たちにはたやすいのです。ですから表情がいいとか悪いとか言っても、結局は自分のことをいっているに過ぎないのかもしれません。 しかしながら、そうはいっても、普遍的とさえ思えるようないい表情が在ることは事実です。これは、本当に得難いものだと思います。逆に、最悪だと思えるのは、まるで死んでいるような無表情です。これは気味が悪いと言う以外の何者でもありません。
写真に写る表情について言えば、被写体の表情がそのまま写ると考えていいでしょう。つまり、いい表情の写真は、被写体がいい心持ちになっているかどうかだけで決まるわけです。これは写真の技術とか何とかいう以前に、人と人との関係の問題だろうと思うのです。荒木経惟さんはよく「写真家は人格者でなければならない」などと冗談まじりに言ったりしますけれど、これは正しいことなのです。
こうした次第ですから、本心より私は人格者になりたいと願うのです。しかし、どうも頭も体もいうことを聞きません。気持ちがすぐに顔に現れてしまう。我慢ができません。辛抱というのができないんです。ですから、早速人格者になることは諦めて、こう考えることにしました。自分の人生なんだから、それでいいんじゃないのって。そうしてみると、随分気が安らかになりました。ちょっと人格者になったような気持ちです。
しかしこれでは商売あがったりになること請け合いです。でも、それでも良しとしてみるわけです。そうしてみるとなんとなんと、まるで人格者のようではありませんか。すごいことです。
ま、詭弁ですけれど。
▲二つの「らしさ」。
『笑う寿像・展』の時に良く受けた質問が二つあります。一つは、展示してあった写真に写っている人は既に亡くなった人なのかどうかということ。そして、もう一つは被写体となった人々は有名人かどうかという質問でした。
いずれの質問も、写真をいくら見つめても答えは見いだせません。そして、答えによって写真の見方が少し変わります。写真に写っている人が生きているのか死んでいるか、あるいは有名人か一般人か、は写真の見方にある道筋をつけます。しかしながらこれは、写真のイメージには直接的関係がないこともまた事実です。これは、写真を見る人の思い込みの問題でしかありません(これはこれで重要な問題ですが)。
ところで、肖像写真というと、もうそれだけで一つのイメージが思い浮かぶのではないでしょうか。肖像写真という言葉自体に、既に写真の撮り方(撮られ方)のスタイルが含まれています。有名人は有名人らしく、一般人は一般人らしくなければならないような気分もするかもしれません。
もっと細分化するなら、男は男らしく、女は女らしく、子供は子供らしく、親は親らしく、会社員は会社員らしく、写真家は写真家らしくといったようにいくらでもでてきます。これらの言葉にはすでに社会的に固定化されたスタイルがありますね。こうしたスタイルを踏襲することが社会人への第一歩となります。しかしこれは、やればやるだけ私らしさを見失う危険を孕んでいます。だから、人は趣味に走る。趣味はあくまで私が主体ですから、そのままで私らしさを演出できます。しかし、だから万全かというと決してそんなことはなくて、同じ趣味をやる人が数多くなればなるほど、そこに私は見えにくくなります。
ですから、結局のところを言えば、私を先にもってくるか、スタイルを先にもってくるかの違いでしかありません。男らしい私、女らしい私、親らしい私、会社員らしい私ではなくて、私らしい男、私らしい女、私らしい親、私らしい会社員を実感できれば、それでいいように思うのです。肖像写真らしい私の写真ではなくて、私らしい肖像写真であれば、それが一番なのです。そしてこれが私の理想です。



