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1.《私》らしい写真を求めて。

 自分なりの写真館をやってみたい! と駅前にスタジオを作ったのが6年前。なにしろ写真館に入った経験は、人生の中でたった1度だけ(それも取材目的)。さらにはスタジオでの人物撮影の経験も無きに等しい私でした。仕事というよりは、ほとんど趣味で始めたようなものなのです。

 そんな写真館で体験したことや考えたこと、これからの行く末(?)、ちょっと変わった写真の技術などについてお話していこうと思います。趣味で楽しむ写真と、写真館の写真とはちょっと趣が異なると思われるかもしれませんが、写真の意外な側面が見えてくる、かもしれません。

写真① 駅前写真館『写真道場』。立派な看板は、なんと手作り! 彫るのに丸一週間かかりました。
写真② 暗室。モノクロには変なこだわりがあって、全て自分で処理しています。
写真③ スタジオ。10坪もありませんが、一通りの撮影は可能です。
写真④ たまたま居る時の私。暇をもてあそんでいます。

写真館のイメージ。

 皆さんは「写真館」という言葉を聞いて何を思い浮かべるでしょうか。証明写真やお見合い写真でしょうか。あるいは七五三、入学、成人、結婚など人生の節目に撮る写真でしょうか。いずれにしても、写真館で撮影する写真はちゃんとした写真といった印象があるはずです。  ちゃんとした写真。正装し、真面目な顔をして撮った写真。どこに出しても恥ずかしくない写真。つまり「正式」であること。これが写真館の写真に欠くことのできない重要な要素だと思います。

 しかし、芸術写真として知られる多くの作品、あるいは広告や雑誌などで日常的に見る写真には、こうした「正式」からは大きく外れたものが数多くあります。しかも、それらの方がなんとなくオシャレであったり、カッコ良かったりしませんか。

 もちろんこれは主観の問題ですので、いろいろな考え方があってしかるべきでしょう。しかし私自身はというと、「正式」な写真にオシャレやカッコ良さをほとんど感じないのです。

 ならば、「正式」じゃない写真館があっていいじゃないか!

 ここがスタート地点です。ちゃんとしていない。普段着でふざけているだけ。見る人によっては顰蹙を買うかもしれない。そんな写真を撮る写真館。こんな、悪い冗談のような写真館に関わりたいと思う人はそう多くはないはずです。しかしそれでも、他人事として見れば、なんだか愉快に思えないでしょうか。




 

営業しない写真館?。

 そんなこんなでスタジオを作ったのですが、従業員を雇えるような余裕はありませんから、ほとんど毎日、閉店状態が続いています。だいたい週に3日も開けられるのがいい方で、いつもシャッターは降りっぱなし。これはもう近所の人には常識となっていて、まれに来るお客さんには、お隣さんが接客をしてくれたりしています。本気でやる気があるのか、自分でも分かりかねるのですが、仕方がありません。

 しかしそれでも、ちゃんとお客さんが来るようになったのが不思議と言えば不思議。予約は留守電とFAXで受け付けていて、撮影の日時などは電話で相談して決めるのですが、これにはちょっと意外に思ったことがあります。もとよりフリーのカメラマンとして仕事を始めた私ですから、徹底的にクライアントの都合に合わせて撮影するのが基本中の基本なわけです。しかし一般のお客さんに、そちらの都合に合わせますよと伝えると、たいていの方が一歩引くのですね。

 えっ? そんなのアリ? と流石に声には出しませんが、そうした感じが伝わってきます。そしてしばらく考えて、何日の何時頃がいいのですが、それでいいでしょうかと、いかにも申し訳なさそうに仰るのです。なんだかこっちの方が恐縮しちゃって大変です。上手くありません。

 なぜだろうと考えてみると、意外なことに気づきました。銀行も、百貨店も、八百屋だって何だって、およそ全ての店に行く時には、私たちは原則として店の都合に合わせているのでした。閉店している時に行っても仕方がないのは当然のこと。それだけでなく特売日とかになると、店の都合に合わせて、わざわざこちらが時間を作って出掛けているのです。

 よくよく考えると、これは極めて不自然です。客である私たちの方が偉い(≒金を持っている)のですから、店などこっち側の都合で動いてくれるのが自然というものでしょう。例えば、銀行のお金の引き下ろしなど、いくら深夜であってさえ、電話一本で行員が自宅まで来てくれのが普通じゃぁないかしらん。客がのこのこ出掛けて行って、なおかつ面倒な機械を自分で操作しなければならないなんて、何をどう考えても不自然です。

 しかしまあ、皆が皆こんな具合に考えるようになったら、別の意味で非常に具合が悪くなることもまた確かなんですが、それでも客の都合に店が合わせるのが商売の基本ですよね。

 

写真の価値って何?

 写真館の写真が高価なのは、技術料だと思っている方は多いと思います。こうした考え方を否定するつもりはありませんが、私はちょっと違うんじゃないかなぁと思うのです。いくら技術が良くても、高級なカメラを使っていても、良くないと思える写真があるからです。その一方で、ピントや露出が合っていなかったりなど技術的には最低でも、また安価なカメラで撮影していても、いいなと思える写真が現にあるからです。

 写真館にとって写真(プリント)は商品ですが、その価値というのは、写真(プリント)に内在しているものではなくして、その写真を見る人が感じる「いいな」という気持ちでしかないと思うのです。もちろんこれが一番得難いものなのですが。

 だから私は、こう考えることにしました。写真を撮られることを、お客さんに楽しんで貰えればそれで良しと。そうすれば自ずと楽しそうな写真が撮れます。つまり、撮影料というのは楽しませ料であって、ここが一番の腕の見せ所という具合です。ですから撮影料は決して安くはしない。しかしプリントは通常のプリント料で大丈夫。だから、ご大層なアルバムに保管するだけではなく、ピンナップのように気軽に扱って頂ければそれでよい。

 どうです。一度、来てみたいと思いませんか。いや、そうじゃなくて、こんな具合に商売ができたら、それはそれは素敵なことだと思いませんか。もちろん、現状としては無理。しかし、いずれは上手くいくようになるだろうというのが、私のささやかで無謀な夢なのです。

《目》の問題。

 しかしながら、これは本当に難しいなと思いました。写真を見る習慣の問題が立ちはだかっていたのです。普通、私たちは写真のイメージに対して、かなり真面目に考えてしまいます。写真は真実を写すんだという考え方が、心のどこかに残滓のようにあって、これは冗談なんだ、ケケケッと笑い飛ばすことがなかなかできません。しかも写真に写っているのが、他でもない自分であったり身内の場合には、余計に慎重になるものです。

考えれば考えるほどに保守的になってしまって、挙げ句の果てにまったく自分らしくない、身内らしくない写真になってしまうわけです。

 こうした意識がありますから、広告や雑誌の中でタレントなどが自由自在に撮られているのに余分に憧れる。しかしここにはちょっとしたトリックがあって、タレントなどの写真を私たちは第三者として見ているから自由自在に見えるだけなのです。これらの写真を私たちは当事者として見ることはほとんどありません。だから、いよいよ騙されるわけです。

 ところが自分自身や身内の写真では、こうはいきません。なぜなら、実物の方が写真のイメージよりも馴染み深いからです。実物よりも不細工に写っているのはもとよりよろしくありませんが、綺麗に写り過ぎていると嘘になるという意識が働きます。写真のイメージは過不足なく普通でなければならないのです。

 でも、やっぱりこれじゃぁ、面白くありません。写真を使って、身内を騙す。あるいは自分自身さえ騙してしまえるような、そんな愉快が欲しいのです。別に騙さなくても、冗談だよ、ケケケッと笑い飛ばせるような写真が欲しいのです。


写真に写る《私》らしさ。

 これは半分冗談ですが、私のような有名作家が撮影すると、被写体の良さを十分に引き出すことができるだろうとお思いになる方は多いかもしれません。

 が、これは大きな誤解です。

 自分自身で自分らしいと思っていることは、たいてい他人は気にも止めていません。自分が欠点と思っているところに、他人は良さを見いだしていたりするものです。自分らしさというのは意外に難しい。それだけでなく、人によって見方が全く違ったりするのですね。

 例えば、貴方をフィルム一本全て使って、いろいろな表情で撮ったとしてみましょう。それを、いろいろな人に見せて、どれがいいかを選ばせます。面白いことに、人によって選ぶカットがかなり違うことを経験するはずです。しかもそれは、自分自身で選ぶのとも違っていたりします。どれが本当の自分らしいイメージなのでしょうか。これはかなり難しい問題ですよね。

 しかし、本当の問題は、自分のイメージがたった一枚の写真に集約できると考えること自体にあるのです。あれも自分、これも自分と、いろんな自分がいることを楽しめればそれでいいと思うのですが、どうでしょうか。